
5月3〜5日、CAMWACCAで主催した「つくるキャンプ」は、今年で早くも6回目の開催。この春に高校を卒業した娘は7年ほど様々な松木プログラムで学んできて、今年は友人とサポートスタッフに入っていました。
友人のほとんどが大学1〜2年生の中、ひとり高校3年生の男子がいました。以前から娘が「ぜひキャンプを手伝って欲しい」と言っていた彼。
実は娘の卒業式の夜、語り合い夜を明かそうと女子3人で河原に向かう道すがら、ばったりで会えたのがその彼だったそうで、自分も友達と釣りをしにいくところだったからと一緒に向かうことに。まだ3月初旬の寒い時期、卒業式正装のまま河原に向かう3人を見て、自宅から寝袋や装備を持ってきてくれて、みんなで朝まで河原で語り明かしたそうです。
その気遣いと行動力を見ていて、やっぱり今年のつくるキャンプにぜひ来て欲しい!と頼んだところ、他からのオファーもあった中で快く来てくれることになりました。
早朝出発のために前夜に我が家に一泊。夕食を食べながら聴いた話に心から感動。ぜひブログに綴りたいと思いました。
命懸けの旅
彼は釣りと素潜り漁が大好き。長期休みになると沖縄の離島や四国の川まで自転車を持っていき、旅をしているそうです。
その旅の話をきくと、なんと彼の旅は命懸けの旅でした。離島に一人で滞在して、夜の海に素潜りをする毎日。自分の身体の感覚だけが頼り。モリを持って海に身体一つで潜っていく。息を止めて目を凝らして魚を探し、そっと近づいていって魚を仕留める。穴の中にいる魚と格闘になることもしばしば。重量がある魚だとそうそう簡単には仕留められないのだそうで、矢のついた縄を少し伸ばして魚を泳がせ、駆け引きしながら徐々に引き寄せていく。
食するためには、その場で血を抜くことが美味しさの秘訣だけれど、近くにサメがいたら自分も襲われてしまうため、周りの気配にも常に意識を配り、必要に応じて陸に上がり血抜きすることが不可欠なのだとか。
呼吸も周りの状況も、ちょっと読みが甘ければ一瞬で命を落としてしまうこともある。
そんな死と隣り合わせの素潜りですが、彼はまさにそれをせずに生きているくらいなら、たとえ命を落としても素潜りをしたいのだと言いました。
そして、旅に出る前に親しい友人には、二度と会えない覚悟で挨拶をして出かけるのだと。
野性の感覚
彼が住んでいるのは埼玉県の山の麓。それでも日々の便利な暮らしの中で鈍っていく感覚があると、あえて自然の中に入り身を置くようにしているそうです。
学校の授業でも狩猟のクラスを受講し、仕掛け網でかかった害獣のいのちを分けてもらうこともある。学校に通いながら、自然から自分でいのちをいただく日々。
彼の目はとても澄んでいて、生き生きと話す姿が本当に美しい青年でした。これから時代がどんなふうに変わろうと、彼みたいな生き方をしている子は大きな影響を受けることなく、どんなところでも自分らしく生きていけるのだろうなと思いました。
それはまさに、山極寿一先生がお話しされていた「野性の感覚」そのものだと思いました。ボタンひとつで何でも解決できる暮らしの中で、少しずつ鈍っていく感覚がある。
でも彼は、それを失ってはいけないと自分の意志で自然の中に身を置き続けている。不便さの中にこそ、生きている実感がある。いのちは繋がっていて、何かに助けられて生きているという感覚——それは、頭で理解するものではなく、身体で経験するものなのだと改めて思い知らされました。
私も子どもたちには、そういう感覚を持っていてほしいと願い、育ててきました。完璧にはほど遠いけれど、それでもずっと大切にしてきたことのひとつです。
この話を伝えると、娘は深くうなづきながら言いました。
「ああ、だから、私は彼と過ごしていると自分は生きている!って感覚になるんだと思う。それは、彼はいまに居続けているからなのかもしれない。」と。
わたしも今度、息子と一緒に彼の釣りにご一緒させてもらう予定です。乱獲ではなく、傷つけないようにお借りして観察させてもらったり、時にいのちを分けていただいたりしながら、自然と共に生きる知恵を彼からも学びたいと思っています。














