連載第2回 Taguchiスピーカーの誕生、ものづくりへの想い
── 田口さんがスピーカーを最初に作られたのはいつ頃なんですか?
鎌倉高校時代。図書館の横に池があって、そこでライブやったんだよ。先生に怒られた(笑)。バイオリンだとか、フォークソングだとかあの当時流行ってたんだけど、楽器やってて。ギター少年だね。ベンチャーズ、かっこいいなと思って。それで、スピーカーを作ってライブをね。
── ギターを弾くのはよくありますけど、スピーカーまで作っちゃうのはそうそうないと思います。その時はどうやって作られたんですか?
HiFi用のスピーカー買ってきて、なんか繋げたりして、アンプとか。電気好きだったから、小学校5年生くらいから秋葉原とか行ってなんか作ってて。科学と実験とかね、ああいうの、子供の科学とか。一の鳥居の脇にある第一小学校だったんですけどね。子どもたちもそう。
中学生くらいの時は坂の下に住んでて、目の前が海で。夏休みになると、砂浜にある貸しヨット屋さんで、夜は流されると危ないからヨットを砂浜の高いところに上げるんだけど、朝にヨットを出すのを手伝ってあげると、「いいよ、午前中だったら乗ってきていいよ」って。それでヨット覚えちゃいましたね。
高校2年生の時、東京オリンピックで目の前の江ノ島からヨット競技があってね、行くと学校サボれた(笑)。それから、大学で機械工学行って、飛行機作りたい!と思ってたんですけど、全然面白くなくてね。これじゃ町工場のおやじになっちまうなと思って、途中で辞めちゃったんですけど。
理工学部で人力飛行機を作ってる木村教授って人がいて、本当に頭良くないと入れないからね、あっちは。だから面倒臭くなって、バンドの方が面白くなって(笑)。それで、ヨットとか作る仕事をちょっとしてね。ファイバーグラスやってたんですよ。FRP。それから、エンクロージャー作ったりなんかするようになって、ツアー用の箱を作るようになってきて、そこからスピーカーになってきて。
町工場のおやじになりたくなかったんだけど、町工場になっちゃった。大変よ、下町ロケットやるのは(笑)。
<研究所を見学させてもらいながら>
── これは、筒になっていて、太鼓みたいに音が響くようになってるんですか?
私はあまりこれ自体を響かせようとはしてないんですよ。物理的には安定したものがいいの。箱自体は変な音で着色されるといやなの。音楽、ソースに対して、ナチュラルな方がいいんで。犬猫が興味持たないとね(笑)。
── 基準は、犬猫が興味持つかどうかなんですね(笑)。
そうそう。トカゲとか猫とかが、こいつはやばいぞっていうような錯覚をしてくれるのが嬉しいじゃないですか。
── 今、子どももすごく低年齢にならないと、純粋な耳がなくなっている気がして。
そうそう。だからそういう時にいい音を聴かせないとね。
<アルバムを見ながら>
これはラスベガスの展示会。まだドルと円の関係で、日本で輸入品もあんまり買えなかったんだよ。だからオリジナルのスピーカー。
舞台屋さんが音響も照明もやってて、だんだんコンサートが増えてきてね。嬬恋コンサートなんてやってたな。78年くらいだったかな。世良公則が「あんたにあげーたー」ってマイクスタンドぴゅーって投げたら、モニタースピーカーに刺さっちゃった(笑)。
その頃の音響の親分が今も仲良くしてる宮本さん。76年くらいから付き合ってる。
── 音の森の宮本さんですか?
そうそう。世界で一番大きなPA屋さん、音響屋さんね。お友達に変人とか宇宙人とかいっぱいいてね(笑)。お友達から仕事が来るんだよね。IDEEとかね、がんばってる人たちと繋がってるから。宣伝しなくてもそういう人たちがみんな営業してくれるんだよ。
すぐガラクタになっちゃうものづくりって違うんじゃないかなと。今思うのは、スイスの時計屋さんとか、1年に1個、1億円の時計を作ってる人とかいるけど、そういうスタイルがいいんじゃないかと思うんですよね。
── 都市部にいる時間と葉山の家にいる時間と、音環境が完全に違うっていつも話してるんです。
長者ヶ崎とか久留和とかあの辺の山の中っていいよね。昔はよくあの辺でみんなと遊んでた。あと、湘南国際村の頂上からあっち側って米軍の敷地で、一般の人が入れるようになったのはつい最近でしょ。そこで植樹祭をやったりしてね。
全国里山にしなくちゃダメだって言って植樹をやってる、宮脇昭先生と。この間ガンで亡くなった小林麻央ちゃんも一緒にね。全国まわって、植樹やって、みんなでふるさとを歌おうってイベントをやって。3.11の時は、南三陸とかにも行ったりしたね。
この間、和歌山でも植樹やったんですけど、あそこらへんはもう杉なんて全然ないんだよね。すごいよね。
── 生態系の豊かな森に戻ってきているんですね。
そうそう。熊が出ていいんだって。しい、たぶ、かし、って言ったかな。
横浜国大の藤原先生は、うちの携帯用のソーラーシステムを、アフリカのケニアの孤児院に持って行って寄付したりなんかしてね。芸大の川崎先生とか、みんな持って行ってくれて。夜みんなが電気つけて学習できるようにしたりとか。
── スピーカーに繋ぐだけじゃないんですね。携帯用のソーラーシステムって、持っていけるくらいのサイズなんですか。
うん、背中に担げるやつとかね。今はこれで舞台音響やってるんですけどね。
── ソーラーで充電して、バッテリーから直でつくった音を聴かせてもらったんですけど、すごくクリアで、何て言うか、透き通った音なんですよね。もともと田口さんのスピーカーの音自体がすごくクリアですし、交流か直流かという電流の違いもあると思うんですけど。
そう。あったかくていい音。生き生きとしてね。楽器やる人はすぐ分かる。3年くらい前に逗子の映画祭でもソーラーでやりましたね。鎌倉でも10年くらい前、ルートカルチャーともイベントやりましたね。
うちのかみさんとルートカルチャーの勝見淳平のお母さんが友達同士でね、幼稚園つながり。うちの子どもとは幼馴染でね。
今となってはまさか最後のインタビューになってしまうとは思いもよらず、、、もっともっと次に続くお話をお聞きしたかったと思うばかりです。
きっと、田口スピーカーが奏でる音が、音楽が、言葉はもはやなくとも、田口さんの夢をかたちに、SOUND MUSEUMを生み出してくれることでしょう。
合掌
田口 和典(たぐち かずのり)
1947年 神奈川県鎌倉市生まれ。
1981年 音響設計・スピーカー製造会社「田口製作所」を設立し、コンサート用・建築設備用スピーカーシステムの開発製造を始める。
2006年 64ch-64スピーカーによる「シンフォキャンバス・音の森」など気配や佇まいを大切にした、コンサートや特殊用途のスピーカーを開発し実用化。
2010年 東京都江東区新木場に製作拠点を移し、引き続き精力的に製造・開発活動を行う。
2021年 永眠
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