第二回『手しごと』と時間 〜『手しごと』は小さなスイッチ〜
僕は、『手しごと』ウエルビーイング 〜 私とつながり、◯△▢とつながる、暮らしの手しごと 〜 のナビゲーターを担当することになった冨田貴史という者です。
月に1回のペースで、13回にわたって記事を書いていきます。それなりに長い旅路になると思いますので、どうぞ気楽に、リラックスしてお付き合いいただけましたら幸いです。
「手しごとと出会うことで価値観が変わる」という体験
最近、「手」という言葉について考える時間がとても増えました。
その原因の一つは、間違いなくこの連載が始まったことです(笑)。手は英語でいうとhand、スペイン語だとmano、フランス語だとmain。それが、日本語だと「手(て)」。たった一文字です。
それってすごいことだな!と改めて思ったりしています。
手洗い、手痛い、手堅い、手厳しい、手洗い、勝手、手頃、上手、下手、などなど手という字を使う熟語も挙げたらきりがありません。「手」を辞書で引いても、全部覚えるのは無理!というくらい多様な意味と用例が出てきます。
「手しごと」についてもしかり。
世界には数え切れないほどの種類の手しごとが存在しています。それこそ挙げていったらキリがないでしょうが、そうと承知で挙げまくってみたいです。
自分の知らない手しごとにも、どんどん出会っていきたいですね。そして何らかの「手しごと」を体験することで、自分の感覚が変わるとか、価値観が変わるということもあるでしょう。
実際、僕もそういった「手しごとと出会うことで価値観が変わる」という体験を繰り返し続けています。今回は、そんな話から入ってみたいと思います。
まずは、ミーティングでのアラタさんの言葉から紹介します。
自分を超える体験。そこにはある種、痛快さがあるって感じていて。
今までは〇だったけど、△な自分になったり、▢な世界へっていうふうにシフトしていくのは否定にも繋がるんだけど、それは、未知な自分との出会いであったり、知らない世界との出会いだったり、視点がひっくり返ったり、新たな視点に出会えたり、求めていたものに出会えたりっていうこととも関係しているので、 そういう痛快さ。
そうだったのか!みたいな、ある種の爽快感というか、 ある意味、打ちのめされるからこそ生まれることもあれば、全然見えてなかったからこそ見えるようになる部分もあるって。
そういう否定感っていうのは残らないというか、小さな自分から、大きな自分になっていく、という意味での否定。否定された感じにならないようにってミネさんが言っているのは、そんな体験と関係してるんじゃないかなっていう気はすごくしています。
変な話、カウンターパンチを望んでいる自分もいたりとか、 今の自分じゃしょうがないだろう、っていう、自己否定っていうか、より大きな自分に目覚めていくための体験を望んでるところはあるんじゃないかな。
目から鱗の体験、それが、爽快であればあるほど変化しやすくなるというか、「そうなのか」って素直に思えるかどうか、というところは、すごく大事なんじゃないかなって気がしています。
アラタさんは、今までどんな「カウンターパンチ」を食らってきたんでしょうね。今度そのあたりの体験談についてじっくり聞いてみたいです。
そうやってみんなで対話できるようなイベントはやってみたいですね。「手しごと イン・ザ・ダイアログ」みたいな感じで、語り合いたいです。オンラインでも、リアルでも。
そして、こういう妄想を(カムワッカのメンバーにも相談なしに)書いてしまう感じは、この連載を進めるうえでとても大事にしたい部分です。これも、前回書いたような「舞台だけではなく楽屋も見せたい」という思いの一環ですね。そういえば、その点について嬉しい感想を頂いています。
前回の記事のこの部分について
僕は、今日までに何度もミーティングを重ねていく中で、とてもたくさんの大切な言葉を受け取っています。そして今、「ミーティングの中で出てくる言葉も紹介したいな」と思っています。ブログ記事が「舞台のようなもの」だとしたら、ミーティングの場は「楽屋」みたいなものでしょうか。 楽屋では、手しごとに対する世界観、価値観について語らったり、やりたいけど出来ないと思っていることや、課題だと思っていることなどの話も出ます。
この文章について「楽屋か〜いい表現ですねー。すごく好きな表現です〜。」という感想を寄せてくれました。彼女とは、コミュニティのシェアキッチンで手を動かしながら語り合うような場を持ちたいね、という話になっています。
タイトルは「ダイアログ・イン・ザ・キッチン」みたいな感じになるかも知れません。手しごとのある出会いの場、語らいの場、どんどん増やしていきたいなと思います。
「普段出来ないような話も、手を動かしながらできる」とか「初対面だったのにすぐに打ち解けられたのは、手しごとを一緒にやりながら話せたからだと思う」といった話をよく聞きます。主催者と参加者の垣根もどんどんなくしていって、昔ながらの「ご近所さんが集う台所」みたいな空気を作っていけたらと思っています。
さて、話を戻すと、いわゆる「カウンターパンチ」を求めて、「旅に出る」という方法もありますよね。僕の周りでも、地球一周の旅をして世界観がひっくり返ったという話を聞かせてくれる知り合いが何人もいます。バックパックを背負って一人旅をしてきて、世界の見方が変わったという話もよく聞きます。インド、タイ、メキシコ、ジャマイカ、ペルー・・・・。
そして、『塩の道』や『忘れられた日本人』などの著書で知られる民俗学者の宮本常一さんは、大学生との交流から「日常の中で出会えない自分に出会うために旅に出る若者に好感を頂いていた」という話をされています。ここで、宮本さんの代表作の一つである『民俗学の旅』の一節を紹介してみます。
文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう。そういうことへの疑問は、現実の社会のいろいろのことにふれていると、おのずから感得できるものである。そして生きるということはどういうことか、また自分にはどれほどのことができるのか、それをたしかめてみたくなる。ところが今の日本ではそれすら容易にためすことができない。自分自身の本当の姿すら容易に見つけることができないのである。
そうしたことから本当の自分を見、本当の自分を見つけることのできる世界へ出ようとするようになるのだと思う。
『民俗学の旅』(宮本常一 / 講談社学術文庫)より引用
「進歩と退化」という言葉はとても興味深いですね。
うすうす感じていたことをはっきりした言葉で表現してもらったという感覚があります。この文章を読んで「たしかに!時代は進歩してると思ってきたけど、いろんなことが退化してるじゃないか!」みたいな気持ちになったりしたら、それこそまさに「カウンターパンチ」ですよね。
実際、文明先進国と言われる日本に暮らす人達の「幸せ指数(自分が幸せだと思っている度合い)」はとても低く、貧しい国といわれている国々に暮らす人達のほうがその指数が高いという話もあります。幸せの度合いをどこまで正確に測れるかはわかりませんが、この話には納得するところがあります。
「手しごとの時間は、少しずつでいい」
今、大正時代と比べると、職業の種類が10分の1以下になっているという話を聞いたことがあります。たしか、「どんどん仕事の多様性が減ってきている」という文脈の中での話だったと思います。
この話を聞いたのは今から10年以上前なのですが、さきほどミネさんに「事実の裏付けになる情報源を紹介したい」という提案をもらって、ネットで元ネタになる記事を探してみたのですが、当時僕が見ていた記事は見当たりませんでした。(消えてしまったのかな)
そして、友人たちにも協力もしてもらって、色々とリサーチをしてみたところ「第一回国勢調査(大正9年)」における職業の種類のリストは、見つけることができました。
政府統計の総合サイト E-STAT 「大正9年国勢調査」 ※上から4番目の表が「職業分類」です。
この表を見ていると、たくさんの仕事が消えてしまったか、絶滅危惧種のような状態になっていることに気づきます。そして、消えていった(消えつつある)仕事の数々を見ていると、いろいろな事がわかってきます。以下は、僕の中にわいたイメージです。
以前は家や、家に隣接する小さな作業所で作られていたような加工品や道具が、家から離れた大きな工場で作られるようになっていく。
家のそばではなく、遠くで。
手ではなく、機械で。
ものづくりの現場が、暮らしの場から遠ざかっていく。
そして、そういうことが見えなくなっていく。
気づいたら、そうなっていた。
この百年はそんな歴史だったのではないでしょうか。
生まれた子どもの世話を、産んだ女性が一人でしなければいけない「ワンオペ」と言われる状況も、暮らしのそばに仕事がなくなったこと、家の周りに大人がいなくなったことも影響しているような気がします。
ものを大事に出来ないこと、壊れたらすぐ捨ててしまうことなども、「作っている人の顔が見えない」というような事が影響しているように思います。そういった様々な現実に「ハッ!」と気づく瞬間。それも、「カウンターパンチ」なのかもしれませんね。そういったことに、旅をすることで気づくこともあるでしょう。
アジアや中米、南米で、そこに住む人達の暮らしぶりに触れたことで気づくことがあった、という話も、前述のような旅から帰ってきた知り合いから聞く機会がありました。異文化に触れることで、自分たちの暮らしを見つめ直す事ができる、ということは旅の醍醐味の一つでもあるでしょう。そして、普段誰かに作ってもらっているような何かを、実際に自分たちの「手」で作ってみるという機会を持つことで、何かに気づくこともあるでしょう。
そんなことを、インドの独立運動を牽引してきたマハトマ・ガンジーも言っていたようです。ガンジーは「町に暮らす人こそ、日々の中の少しの時間でいいから、チャルカを回すべきだ」と言います。チャルカはいわば「糸車」のことです。
彼は「インド人の多くがイギリスの企業から買った服を着ている。インドはイギリスに支配されたと言われているけれども、私はそう思わない。インドに暮らす人達が、イギリスの政府や企業の望む通りの暮らしを自ら選んでいる。そのような事実に気づくための時間を持つという意味でも、チャルカを回す時間を持ってほしい」と語っています。
すべての衣服を自給できなくてもいい。少しずつでいい。
少しずつでも、「自分が身にまとうものを自らの手で作る時間を持つ」ことで、普段身につけている衣服が、誰によって、どこで、どのようにして作られたものなのか、に気づける感覚が育つんですね。そのような感覚こそが、自給とか自立といった道につながる感性を育てる、ということを彼は生前に言い続けていたようです。
彼は「手を動かす時間そのものが瞑想になるよ」と言って、「チャルカを回す時間」に人びとをいざなっていました。そのことに、僕も気づきました。手しごとは、瞑想のひとつなんですね。繊維ができる過程や、そこに色がつけられる過程、縫製、流通、染め直しや作り直し、廃棄、リサイクル。
それぞれの現場に意識が向くようになる。手しごとをする中でそういう時間が生まれてくる、というような事を、僕も体験し続けています。
参考文献
著:M.K.ガンジー 編集:田畑健 翻訳:片山佳代子 出版:地湧社
自治・自立の象徴としてチャルカ=糸車を選んだガンジーは、近代機械文明の正体を見抜き、真の豊かさとは何かを知っていた。本書は、日本でこれまであまり紹介されなかったガンジーの文明論、チャルカの思想、手織布の経済学など、ガンジーの生き方の根幹をなす独特の思想とその実現への具体的プログラムを編む。 機械化社会の末路を予見していたガンジーの言葉は、今の日本、今の世界が抱える問題を乗り超えるための示唆に満ちている。
参考アイテム
販売元:ゆっくり小学校
机の上でも紡ぎやすいように、スピンドルの角度を調整し、糸車が滑らかに回るように工夫を凝らしています。たたむとA4サイズになり、持ち運びにも便利です。ターンテーブルをまわすDJのように、日本製のチャルカで糸紡ぎをお楽しみください。
ガンジーの言う「手しごとの時間は、少しずつでいい」という言葉から、のどかさんとミネさんが話していた会話を思い出しました。
味噌作りって、たくさんの量をおっきなお鍋で作るイメージがあるけど、時間が空いた時に2リットルぐらいの瓶にちょこちょこ作っていけたら、もっと都市生活者とかでも ハードルが下がるのかも。
私、いつもお味噌をいっぱい作ってたから、おっきいお鍋とか、大きな道具ばっかり持ってたんだけど、数年前の洪水で流され、道具もないし‥とめっきりやる機会が減ってしまって。大きな道具がなくても、一回あたりを小ロットにすれば今持っている道具で全然まかなえるのに。なぜかイメージとして、味噌づくり=大きなサイズってことになってたんだって思って。
手しごとをする時間を作るというのが結構大変。
僕もこの間「梅肉エキス」作った時に、 普段やらない時間を作るって、なかなか最初のハードルが難しいというか。
この間は梅が送られてきて、もう青いうちに作らなくてはいけないから、 午前中はこれにするみたいな感じではじめたけど、そういう時間制限がなかったら、また今度、みたいになって、そのまま置いておかれる気もするし、 今の現代、特に都市生活者みたいな人にとって、手しごとする時間を作るっていうのも実はすごく難しいっていうか、そこがまずハードルあるんじゃないかな。
私も、この前アラタくんと2人で梅を収穫に行ったんだけど、夜になって持ち帰った梅を前にして、「これから1人で梅しごとかあ・・」と思ったら、ちょっと気が萎えちゃって。でも、あらたくんが一緒にやってくれることになって、普段はなかなか2人で話す時間がないのを、話しながら手を動かしていたら梅が擦り上がった!それで「夫婦トークは手仕事をしつつ」みたいのもいいなって思った。
そういう意味では、僕が嶋野ゴローさんとやってるみつろうクレヨンのスクラッチワークも、なんかアートしてるというよりは、カリカリ手しごとっていう感じあるね。
ある意味、縫い物してるのとあんまり変わらない感じで。 で、そこで手を動かしながら話したりしてる。
かくいう僕の中にも、「どうせやるなら、たくさん作りたい」とかいう気持ちはあります。それはある意味、正常なセンスだとも思います。
例えば、僕は味噌づくりのために大豆を5時間ほど茹でます。「どうせ同じ時間で大豆茹でるなら、いっぺんにやりたい」と思ったりします。そして、せっかくだから何世帯分かの味噌を作りたいな、とも思います。だから、大豆をそこそこの量仕入れたり、人を何人か集めたりします。
「最大で、1日でどれくらいの量の作業ができるか」をわかっておくことは大事だと思います。でもそれが当たり前になると、出来ない日が増えてしまうのも事実です。連絡を取り合うこと、人を招くことが出来る場をデザインすること、材料を仕入れること。それぞれのプロセスにエネルギーがかかります。「まあ今回は、家族だけで、家族分だけ作ろう」ということを出来たのは、僕の場合は息子が生まれた後でした。
それまでは必ず、自分の運営している作業所(冨貴工房)に数人の知り合いを集めて味噌づくりをするのが当たり前になっていました。しかし、産後はなかなかそのような場のオーガナイズをする余裕がなく、味噌づくりの機会が先送りになり続けていました。
そのような中、ふと「とにかく5キロくらいでいいから家で作ろうよ」ということになり、やってみたことで「小さくやることの大切さ」に気づくことになりました。それからは、いっぺんに20キロ以上の味噌を工房で仕込む機会と、5キロ位の味噌を家事の合間に仕込む機会とを、柔軟にデザインできるようになりました。そうやって、日々の「手しごと」の量にメリハリを付けることで「手しごとをいやにならない」感覚が育つような気がします。
そのバランスはとても微妙で、どっちがいいということもなく、その時々の精神的な余裕や体力、モチベーションを感じ取るセンスも大事になってくるような気がします。
そういうことについて、みんなはどう感じているんだろう?その話を聞いて、どんなことを思うんだろう?それこそみんなで語らってみたいです。
「バディ」という存在
カムワッカの3人の話を聞いていて、手しごとを暮らしの中に取り込んでいくために大事な要素が2つ、見えてきた気がします。
それは
・小さくやること
・話し相手がいること
です。
「小さくやること」については、ここまでに触れてきました。そして、後者の「話し相手」は、英語でいうと「バディ」とかとに近い気がします。パーマカルチャーや非暴力コミュニケーション、持続可能なコミュニティづくりなどに取り組む英語圏の人達からよく、「バディを持つことの大切さ」という話を聞くことがあります。
バディは仲間のこと。マブダチとか、親友、と訳したほうがしっくり来る、という人もいます。
そして、前述のような社会活動を行なう人達が使う場合は、「世界観や価値観を共有する友だち」とか、「お互いが大事にしているものを理解しあえている同士」とか「何かあったら支え合える仲間」のことを指したりします。
彼らと話していると「そういう存在(バディ)を持つこと、そういう関係性を意識的に育んでいくことが、自分が大事だと思うことに向き合っていく上でとても重要なんだ」という話がよく出てきます。
ここでふと、カリフォルニアで出会った女性、ジョアンナ・メイシーの話を思い出しました。ジョアンナは、1990年代にプルトニウムを始めとする核廃物の行方について調査するグループを作って活動をしてきました。その過程の中で大事だったことは「思ったことや感じたことを受け止め合えるサポート体制をつくること」だったといいます。
彼女は「生態系のすべてが分かちがたくつながっていると気付き、感謝のエネルギーを広げていったら、避けがたく絶望的な現状にも出会ってしまう」と語っています。
海への感謝を深めていく中で、軍用基地や核施設のための埋め立ての実状に出会ったり、食べ物への感謝を深めていく過程で、「その食品がどのように作られているか」の現実を知ってショックを受ける、など、様々な形でそういったことが起こります。
ジョアンナは「感謝のエネルギーを広げていくことで、心は繊細になっていく。その繊細さゆえに生まれる動揺や落胆、嘆き、怒りのようなエネルギーを受け止めあって、消化して、プロセスさせていく流れに寄り添い合い、支え合うことが大切」と言います。
参考文献
『カミング・バック・トゥ・ライフ――生命への回帰 つながりを取り戻すワークの手引き』
著:ジョアンナ・メイシー / モリー・ヤング・ブラウン 訳:齊藤 由香 出版:日本能率協会マネジメントセンター
現代は、あらゆる個人、あらゆる個人が、 環境問題、自然環境の荒廃を無視したまま生きるのは難しい時代になっていると言える。 しかし、その対応、反応は一様ではなく、各組織、各個人によって様々だ。 足並みの揃わない状態においても、自然は待ってはくれない。
そして、「生命持続型社会」への転換を実現するためには、 一人ひとりの「カミング・バック・トゥ・ライフ(生命への回帰)」 (生命・支援とのつながりを取り戻すこと) が欠かせないとも言える。 本書は、世界中の社会活動家たちに大きな影響を与えた 米国の環境哲学者、社会活動家であるジョアンナ・メイシーが培ってきた 「つながりを取り戻すワーク」の理論と実践の集大成。
『アクティブ・ホープ』
著:ジョアンナ・メイシー / クリス・ジョンストン 訳:三木 直子 出版:春秋社
どんな時にも希望を失わない生き方。 いま、生きることが困難な時代に、希望をもって生きることができるか。個人的・社会的なよりよき変容のためにできることとは。「つながりを取り戻すワーク」の理論的枠組みと、その実践法を提示。
今ここで取り上げている「話し相手」や「バディ」という存在は、「ただの」話し相手でも、「ただの」友達でもない質感のものだと感じます。
相手の話を、そのまま受け止めたり、相手の思いに寄り添ったり、相手が「大事だ」と感じていることを尊重したり、そうやって意識的に、「手しごと」をするように丁寧に作られていく関係性のようなものを「バディ」と呼んでいるような氣もします。
今回紹介したガンジーの本のタイトルにも「自立」という言葉が出てきますが、「自立」とは「孤立」のことではないのだな、と思います。
ジョアンナも、著書の中で「自分が何によって支えられているのかを認識すること」の大切さを語っています。自分たちが、どんな存在に支えられて生きているのかに気づいていく。そうやって、改めて生態系の中に、世界の中に、自分自身を位置づけ直していく。
手しごとと向き合う時間は、世界や、世界の中の自分の位置づけを見直す機会にもなっているな、と我が身を振り返って思います。
「手しごと」は小さなスイッチ
今回の記事タイトル、「『手しごと』は小さなスイッチ」は、アラタさんからの提案によるものです。僕がこの原稿の下書きを仕上げた状態で読んでもらった、その後にひらめいたのかな、と思います。
この文章を読んでいくことで、自身の意識下にあったキーワードが浮上してきたのかな、とも思います。言葉を発掘したというか、意識の地下水脈から汲み上げたというか。僕としては「スイッチかー、面白いことを言うなー」と思いつつ、腑に落ちるというよりは、その言葉に宿る価値観や、その言葉の奥にあるものを、これからじっくり味わっていきたいなと思っているという感じです。
「すぐにわかった気にならず、消化に時間をかけるように、寄り添っていく」こういうスタンスも、手しごと的な付き合いかただと思います。そして、「あ、スイッチって言ってた人、他にもいたな」と思って、ある本を棚から引っぱり出したら、やっぱり書いてありました。
山口県の下関で「ゆっくり小学校」という面白い場所を営んでいるむねんさん(上野宗則さん)という友人が、2022年に「家庭でできるプランター栽培」についての本を作って、送ってくれました。
「やさいがよろこぶ、”なちゅらるプランター” 小さな大地から始まる物語」
語り・監修:三浦伸章
著・編集:上野宗則
出版: SOKEIパブリッシング
この本の表紙には、タイトルよりも大きな文字で「やさいはスイッチ!」と書いてあります。その時も「なんて面白い表現なんだ」と思いましたし、中身を読み進める中で、なるほどなと思うことがたくさんありました。
アラタさんが今回「スイッチ」という言葉を引き出した思いの奥にあるものと、この本を作られた二人の思いの奥にあるものに「同じ地下水脈でつながっている」というようなつながりを感じたので、この中から、三浦さんとむねんさんの言葉を紹介して、この号を閉じたいと思います。
「はじめに いのちを繋ぐ、スイッチを!(三浦伸章)」より抜粋
ダイコン、ニンジン、キュウリ、トマト・・・・・・、自然はたくさんのかたちや色、香りのある、野菜という芸術品を完成させて、僕たちの目や鼻、口や心をたのしませてくれます。茶色い種や黒い土から、色々な野菜が生まれてくるって不思議ですよね。土と人間とさまざまないのちが共鳴し、ひとつの芸術品が完成していく過程をたのしんでもらえるとすごくいいなと思っています。
僕の経験や直感から導き出したやり方なので、常識はずれだったり、科学的根拠のないものだったり、間違っていることもあるかもしれませんが、常識を超えていく醍醐味を味わってもらえたら幸いです。
一人ひとりが童心にかえって、太陽や風や土を感じて、自然の一部になって、オリジナルな栽培方法を見つけてください。栽培方法に正解なんてありませんからね。小さなプランターの中で繰り広げられる生きものたちの営みが、大きな自然へと繋がるイメージをもって、取り組んでみましょう。
”なちゅらるプランター”でたのしむ野菜づくりが、幸せな家族やコミュニティ、豊かな心、豊かな自然を育むスイッチとなり、未来にいのちが繋がっていけば、いちばん嬉しいです。
「編集を終えて 小さな大地から始まる物語 (上野宗則)」より抜粋
三浦さんの言うように”なちゅらるプランター”は、未来にいのちを繋ぐスイッチ。野生と仲よくするスイッチでもあり、僕たちのマインドセットを変えるスイッチ、みんなで豊かになるスイッチです。
今回もお読みいただきありがとうございます!また次回お会いできることを楽しみにしています。
拝
冨田貴史(とみたたかふみ) プロフィール
1976年千葉生まれ。大阪中津にて味噌作りや草木染めを中心とした手仕事の作業所(冨貴工房)を営む。
ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で和暦、食養生、手仕事などをテーマにしたワークショップを開催。著書『春夏秋冬 土用で暮らす』(2016年/主婦と生活社・共著)『いのちとみそ』(2018年 / 冨貴書房)『ウランとみそ汁』(2019年/同)、「未来につなげるしおの道」(2023年/同)など。