第四回 『手しごと』リトリート

こんにちは、『手しごと』ウエルビーイングのナビゲーター冨田貴史です。
月に1回のペースで、13回にわたって記事を書いていきます。それなりに長い旅路になると思いますので、どうぞ気楽に、リラックスしてお付き合いいただけましたら幸いです。

秋の彼岸も過ぎ、季節はもう秋の土用です。今年は西暦10月20日から11月6日が土用期間。そして11月7日の立冬から冬が始まります。
以前の日本であれば、炭焼きをしたり、塩炊きをしたり、畑で枯れ草を焼いたり、といった形で火を熾す仕事が増えてくる時期でしょうね。戦後は、野焼きが禁止になったり、薪ストーブなどを導入するのに役所への申請が必要になったり、色んな意味で「火」が生活から遠ざかってしまったなあ、なんてことを思う気持ちが湧いてくるのも季節の影響でしょうか。

プロローグ まずは季節の養生のお話

そして立冬から始まる初冬の時期は、まさに冬支度の頃。
「霜が降りる前にやっておこう」と言いながら薪を割って家の周りに積んだり、収穫してある稲や大豆や小豆を脱穀したり、大根やきのこなどを天日干ししたり。

そして、家にこもることが多くなる冬をいかに快適に過ごすか、といったことをイメージしながら、納屋や台所を片付けたりしながらすごす、というような暮らしが一般的だったのではないでしょうか。そして、今挙げたような仕事はどれも、一人でやるというよりは、家族や隣人と協力しあって行うものが多く、結果として、囲炉裏を囲んで食事を共にする機会も増えていきます。

秋冬の食卓には、切り干し大根や金平ごぼうのような「常備菜」が並びます。「常備できる惣菜=常備菜」は文字通り「ずっと置いておいても大丈夫=腐りにくいもの」であるということでもあります。エネルギーの高い根菜類を、醤油や味噌で引き締めて、じっくり煮込んで、体内に取り入れると、血液やリンパなどの体液も腐りにくい=きれいでサラサラになります。

また、冬は日が短いので、電灯がなければ自然と就寝時刻も早まっていきます。ですから必然的に、冬は「よく眠ってエネルギーを充電する季節」となっていました。夜によく寝ると、昼によく動けるようになるように、「冬によく寝ると夏によく動けるようになる」と言われています。

季節を感じる暮らしと手しごとは、心身のバランスに大きな影響を及ぼしている。冬を迎える中で、日々そんなことを実感しています。今回は、そんな前フリから、手しごとの話を「心身のあり方」みたいなことと絡めて、掘り下げていけたらと思います。

あ、先に言っておきますが、前回の記事が情報満載で、「美味しいけど一気に食べて消化するのは難しい」盛り沢山のブッフェみたいな状態だったので、今回は、前回よりサッパリしたテイストとボリュームでお届けしようと思っています。(注意:それでもカムワッカの皆さんには「(タカさんは)そう言ってたけど、十分読み応えがあります」と言われています)

「すでに在る豊かさ」を分け合う

のどか

先週、お友達の畑に収穫のお手伝いに行ってきたの。その時、お友達の隣の区画で畑をしている高齢のおじいちゃんが、私たちがいることに気づいてアイスを差し入れてくれて。少しおしゃべりしたんだけれど、野菜にあげるお水うちのを使っていいよとか、畑仲間としてすごくウェルカムしてくれているのを感じた。

友だち曰く、おじいさんはすごく野菜育てるのが上手なんだけれど、今は肩を痛めて雑草が抜けないというので、私はおじいさんの区画の草むしりをすることに。すると、「ここでできている野菜、好きなだけ持っていっていいよ」とたくさん持たせてくれて。その人が欲しいサポートを提供して、私も欲しいものをたくさんもらって・・お互いが欲しいものを交換しあえる喜びっていうのを感じたと同時に、命の循環的にもすごい豊かだなって思うことがありました。

サポートをもらうことと、サポートをすること。この両方がすごく大事で、このバランスがすごく大切、ということを、2回前の記事の中で書きました。

その循環がスムーズに行けば「サポートできるはずだけでしてなかったこと」や「サポートをもらえるはずだけど、もらえてなかったこと」によるエネルギーの滞りが解消されて、「ああ、こんなに豊かな関係性がすでにここにあったんだ」という気づきを得られたりします。

僕は2016年にカリフォルニアのベイエリアを初めて訪ねました。この時に「フルータ・ギフタ(fluta gifta)」という取り組みをしているサムという男性に出会いました。彼は当時、「カサ・デ・パズ(CASA DE PAZ)」という家に住んでいました。

「カサ・デ・パズ」があるオークランドは、イーストベイにあります。
アメリカの西端に南北に広がるカリフォルニア州の、ちょうど真ん中あたりに位置するサンフランシスコ湾周辺をベイエリアと呼びます。そして、この湾の北はノースベイ、南はサウスベイ、東はイーストベイと呼ばれていて、それぞれ地域ごとにちょっとずつ違った特徴を持っています。そんなサンフランシスコ湾の東側、イーストベイの中にはバークレー、ウォルナットクリーク、オークランドなどがあります。

その中のオークランドの一角は、メキシコからの移民も多く、親だけが強制送還されて、子どもが地域に残りギャング団に取り込まれていくというようなことも普通に起こっています。貧富の差が激しく、お金がないとジャンクフードしか食べられない、という状況の中で、オーガニックマルシェなどで残った野菜や、販売するのが難しい(熟れすぎた)果実などを、家の前に出して無料で配る取り組みが「フルータ・ギフタ」です。

この取り組みをしている場所が「カサ・デ・パズ」です。この家があるエリアは、非常に治安が悪く、強盗や泥棒も多い地域であるにも関わらず、この家(と庭)は、鍵をかけず、誰でもいつでも出入りできるようにしてあります。

彼らの考え方は、今在るものを活かすこと、今ある豊かさを分け合うこと、今ここに平和をつくること。PAZはメキシコの言葉(※つまりスペイン語)で「平和」のこと。CASAは家であり、庭であり、家庭や家族の持つ温かみのことも表す言葉です。

僕は彼らの取り組みや、彼らとの交流から「無い無いと嘆くのではなく、在るものを活かすことを考えて実践する」とか「平和は自分たちの身の回りから作っていくもの」という考えを受け取っている気がします。

参考記事

カリフォルニアを訪ねた時に会ったフリーライターの彩ちゃんがわかりやすくカサ・デ・パズを紹介していたので、その記事を紹介します。

ベイエリアには、その他にも「食をめぐる様々な活動」が存在しています。

眼の前にある貧困や差別に目を背けず、むしろそのような状況の中で、自分たちにできることを実践し、なおかつ、それらの活動同士が「菌糸」があるかのように結びつきあい、エネルギーを交換し合っているように見えます。

オーガニックマーケットと、在来種の種を守る活動と、カサ・デ・パズのような活動と、学校の中に菜園をつくる活動と、空き地を畑にして収穫物を分け合う活動とが、互いに分かちがたく結びついているようです。そんなベイエリアの食にまつわるムーブメントを描いたドキュメンタリー映画『都市を耕す エディブルシティ』を、前回紹介しました。

参考文献

『都市を耕す エディブル・シティ』 (2014年/米国)  

監督:アンドリュー・ハッセ

日本語版制作・配給:エディブルメディア

内容案内:畑で街を占拠しよう!

この映画を監督したアンドリュー・ハッセに対して2020年8月に行ったインタビューの一部を、前回に続けて紹介します。
ちなみにこのインタビューを行った栄里は、今は僕と家族になって日本に住んでいますが、この映画が出来た頃はベイエリアに暮らしながら、食にまつわる様々な取り組みに関わったり、日本に広めたりする活動をしていました。

インタビュー日時:2020年8月7日(ズームにて) / インタビュー:冨田栄里

アンドリュー・ハッセ

パンデミックの影響によって起こっている変化はとても興味深いものだと思う。ある一定数の人たちが、物事の優先順位や自分の価値観を見つめ直す期間として今を過ごしているように感じるんだ。このことが文化全体に与える影響について、とても関心を持っている。

僕自身は、今の時代に大切なことは、自分たち自身を自然とつなぎ直すことだと思っている。今起こっていることに対して大きな視点で理解できないのは、僕たちが自然から断絶されすぎたからだと思う。

僕たちは本当は自然の一部で、大きな生態系の一員だということを思い出さないと。そう思うからこそ、人びとが自然とつながりだしているという事実を目の当たりにするとワクワクする。

栄里

たとえばアメリカではどんな変化が起こっているように見える?

アンドリュー・ハッセ

人びとは野外学習について興味を持ち始めている。野外のほうが安全だからね。COVID-19は野外では感染リスクが低い。

僕はそこに希望をもっているよ。僕の身の回りでも、野外学校が始まった場所がいくつかある 。一度子どもたちと外に出たら、ガーデンに向かうのは自然なこと。

気づいたら食についての学びを実践する(エディブル教育をする)ことになる。そこに向かっている気がするよ。オンライン教育もより広がるだろうね。そこには利点もある。より多くの情報が得られるし。オンラインの場でも、いろいろなスキルを習得できるとも思う。

でも、僕が長い間いろいろな場所を撮影をしたり、撮った映像を見直したりする経験を通じて感じるのは、実際に自分がガーデニングをしたくなったということ。「本当にやりたいのはこれだ!」って。撮影も楽しかったよ。

でも自分も手を泥で汚したくなった。ガーデニングをしている人の姿に触れて、それがどれだけ気持ちいいかを聞いていたら、やらずにはいられなくなる。
だから、子どもたちが野外に出る機会が増えて、自然界のことを学んだり、走り回ったりして、野外活動にどんどん興味が向くようになっていって、自然界に対して目を向けていくとしたら、いろんなことがいい方向に向かうと思っている。正直、この先が楽しみだと思っている。

アンドリュー・ハッセ

カリフォルニア州バークレー生まれ。
2008年に開催された『Slow Food Nation 2008』への参加をきっかけに食の問題に関心を持ち始め、シナリオを作らずにドキュメンタリー映画の製作を始める。
映画を作る過程で、質の良い地元産の食材による、再生可能な食のシステムが持つ力に目を開いていき、2014年に『Edible City』(原題)を完成させる。それ以来、映画の上映活動を続けながら、長編映画の編集や、再生可能な農業やシステム設計に焦点を当てた活動に関わっている。 
現在は、北カリフォルニア(オクシデンタル)に居を移して、生態系の一員としての生き方について学び続けている。

アンドリューは、オンライン教育も広がるし、野外活動も増えていくだろうと言っています。そして、野外活動に可能性というか、希望を見出しています。
実際、オンライン教育には長所と短所がある気がします。短所というか「注意したいことがある」というイメージですね。例えばそれは、僕の中では「ディスプレイタイム」をデザインすることの大切さとかです。

タブレットやスマートフォンから発する光(ブルーライト)は、旧式のパソコンや携帯電話のディスプレイが放つ光よりも、眼精疲労を起こしやすいと言われています。この光を浴び続けることで、眼や、眼に直結する脳の一部が「今が昼か夜かを判断する」力を鈍らせて、自律神経が乱れたり、睡眠障害を起こすということもあるようです。

その影響で、キレやすい、集中力が続かない、といった症状が報告されたりもしています。ただ、スマートフォンやタブレットを子どもたちが常時持つようになってから、それほど年数が経っていないので、研究データが出揃っておらず、「知っている人しか知らないような話」になっています。

そして具体的な対処法として「タブレットやスマートフォンを開く時間帯を決める」とか「見ないと決めた時間帯は身の回りから物理的に遠ざけておく」といった工夫をすることで、気が散る、集中力が散漫になる、などといったことが起こりにくくなるといった話も、少しずつ整理された形で広まってきているように思います。

「自然欠乏症候群」をリトリートする

さて。
オンライン教育と平行してアンドリューが話していた「感染を防ぐために子どもたちが野外に出ていったら、いい感じになってきたというような話の内容を受けて、すぐに連想した本があります。

参考文献

『自然欠乏症候群 -体と心のその「つらさ」、自然不足が原因です-』

著者:山本竜隆

発行:ワニブックスPLUS新書(2014年)

この本の著者である統合医療の実践家である山本竜隆さんとは2015年に、彼が運営している「富士山静養園」でお会いしました。

僕が「日本の暦と季節の養生法」の話をして、その前後に瞑想をしたり、自然散策をしたり、マクロビオティックのご飯を食べたりするという合宿型のイベントで、僕自身とても心身をリフレッシュできて、エネルギーを充電することができました。今も僕は、こういった合宿型のイベントをどんどん企画していきたいと思っていますが、そのようなモチベーションの源泉には山本さんとの出会いがあります。

 ひと昔前まで、泥んこになって遊ぶ子どもの姿は、あちこちで見られました。日が暮れるまで遊び、暗くなる前に帰宅すると夕飯を食べ、入浴すると9時頃には猛烈に眠くなって、10時前には寝てしまう。それがごく当たり前の子どもの姿でした。

 ところが現代、外で遊ぶ子どもはまれ。また、安全面から子どもが外で遊ぶのを危険視する親もいるため、ますます子どもが外で遊ぶ機会がなくなります。こうなると、子どもたちは家の中に閉じこもって、スナック菓子を食べながらスマートフォンやタブレットで遊ぶしかありません。

 こうした子どもたちが増えているのは、日本だけではありません。欧米でも同じように、「自然」から遠ざかった毎日を送っている子どもたちが増えているのです。そうした生活を送った結果、子どもたちの心と体に深刻な影響を与えている。それが、リチャード・ループ(※)が警鐘を鳴らした「自然欠乏症候群」なのです。

 自然から遠ざかった結果、子どもたちには次の症状が表れました。

・集中力がない。ひとつのことに集中できない
・落ち着きがなく、じっとしていられない
・忍耐力がなく、かんしゃくを起こす
・他人に対する気遣いができず、友達とうまく遊べない

 これら自然欠乏症候群の症状は、ADHD(注意欠如・多動性障害)ともいわれる行動障害の症状と驚くほど共通していることがおわかりでしょうか。

 子どもにとって世界は初めて見るもの・聞くもの・触れるものにあふれています。それらを文字通り手探りで体験しながら、五感を総動員して世界を広げていくのが子どもです。そうした体験を豊かに、無限に広げてくれるものは「自然」しかありません。

ー『自然欠乏症候群』より引用

先ほど紹介したアンドリュー・ハッセは、インタビューの中で「子どもたちが野外に出る機会が増えて、自然界のことを学んだり、走り回ったりして、野外活動にどんどん興味が向くようになっていって、自然界に対して目を向けていくとしたら、いろんなことがいい方向に向かうと思っている」と言っていました。

最近の「手しごとに関心を寄せる人が増えてきている」という状況の背景にも、アンドリューの話と似たものがあるような気がします。五感を総動員して向き合う対象としての「自然」であり「手しごと」に、いわゆる治療的な効果があるのではないでしょうか。

『自然欠乏症候群』を書かれた山本竜隆さんは、2023年に新しい本『リトリート 日本人のための「新疎開」のすすめ』を出されています。

参考文献

『リトリート―日本人のための「新疎開」のすすめ』

著者:山本竜隆

発行:旬報社(2023年)

この本の中で、自然欠乏症候群の治療として「リトリート」という手法を提案しています。

 リトリートの主な意味は、「退去」「静養先」「隠れ家」「避難所」「潜伏場所」「黙想」などです。里トリートメントが語源という説もありますので、「転地療法」「再治療」「回復」などの意味もあり、自然豊かな環境で心身をリセットできる場所、行為という認識が一般的だと思います。

 私も、「静養して心身や思考をリセットするきっかけの場や行為」「養生と充電の場や行為」と考えていますが、「避難所」「隠れ家」などの要素を広く考えると、「生き延びていく場所」「衣食住を確保できるところ」「疎開場所」などの万が一のときに自分や家族を救うための要素も含まれるのではないかと考えています。

(中略)

 今、私は養生という言葉を使いました。リトリートは、「養生と充電の場や行為」だと。では、養生とはどういうことでしょう。

 養生とは、一般的には健康を守り、維持するための生活方法のことです。さらに、心身のバランスの崩れを補正したり、足りていない部分を補ったり、リセットして自分を元に戻したり、よりよい状態に修正することだと私は考えています。

僕は山本さんの考え方や実践に触れる中で、自分がやって来たことの多くがリトリートに向かうものだったんだということに気づきました。
仲間を集めて味噌づくりをすることも、薪を集めて火をおこして塩を炊くことも。自然体験をしながら、自分たちの生活を見直して、生きるために必要なものを作って備えていく。
そういう意味で「養生」と「充電」、そしていざというときの備えを作ることで精神的、肉体的な安心を自分たちで作っていくという意味での「リトリート」だったんだなと、今になってしみじみ思っています。

続いては、ミネさんのお話を聞いてみたいと思います。

ミネ

僕はどちらかというと、ずっと机の前に座ってPC作業をやってきた人なので、この年になって、体を動かすって大切だなって思うのと、そもそもこれまで体を動かすことを避けてきていたところがある。

でも、生活の中でそれがないと” 地球に優しいとか、SDGsとか、地球環境”みたいな、概念としてはわかるけど、感覚的に地球と自分が繋がってるという体感がないと、ずっと概念の話になると思う。

あと、頭と体と心みたいなところ、つまり、愛情を感じるとか・・・何かするとき、僕が頭ばかりで考えて、心みたいなものをあまり見てなかったなっていう思いもあり。

さっき言った概念で繋がるとは別の回路があって、これまで僕は回路がすごく狭かったなっと感じていて、人間として体や心といった忘れていた色々な回路が開く可能性があるなと思い始めている。

その回路を繋ぐ1つの方法として、手しごとがあるような気がする。

頭、心、体、それぞれをつなぐ回路があるんですね。

実際に僕らは、酸素の流れや血液の流れ、リンパ液の流れや電気の流れなど、様々な動線や交差点が入り交じる回路によって生かされています。その回路に、働きかけることができるということですよね。そして、その方法の一つに「手しごと」があるというお話だったと思います。

僕も、その話にとても共感しますし、自分が手しごとを大事にしている思いの背景にはそういう意図もあったんだろうな、と感じています。

手と足を使ってアーシングする

今6歳になる息子の味噌づくりデビューはおそらく生後4ヶ月目くらいだったと思います。最初は茹でた大豆を足で踏ませていました。

2009年に出会って僕に味噌づくりを教えてくれた「いかりみそ」の碇てつやくんは、一緒に味噌づくりをするときによく「昔は子どもたちに大豆を足で踏ませていた」と言っていました。
その話を聞いて「ああ、なるほど。子どもの足裏にはたくさんの乳酸菌が集まっている。それを混ぜ込むのはとてもいいな」と思って、よく乳児を連れてくる味噌づくりワークショップの参加者さんにも「子どもに踏ませて」と頼んでいます。

息子も、ほかほかの大豆の暖かさとやわらかさが気持ちよかったのか、嫌がることもなく踏んでいました。そして、そのうちたらいにもたれかかって、手を使って大豆をこねるようになり、その後は自分で立って作業をするようになりました。

そして今では、味噌づくりに初めて参加する人にやり方を教えたり、場を仕切ったり、「次はいつ作ろうか」と言って味噌づくりの企画提案をするようになっています。
足から入って、手を入れて、頭を使って、口を使うようになっていく。その推移が見ていてとてもおもしろいです。まさに、一つ一つの回路に少しずつスイッチが入っていくような感じです。

彼は、土から生まれた天然染料である「ベンガラ」を使った染めも、生後半年くらいからやっています。最初はバシャバシャとお水遊びをするような感じで、多分「何をしているのかよく分かっていない」状態で、「でも楽しいな」とか思いながらやっていたんだと思いますが、それからは「やりたい」と言って自分の意志で自分の衣服を染めています。

染めは、味噌づくりと違って、一点ずつを自分の感覚と作業で作っていく「作品づくり」みたいなところがあります。以前から「この服はこういう色にしたい」と言って作業をしていましたが、最近はイメージの解像度が上がってきていて「この青にもうちょっとだけ赤を足して紫寄りにしたい」とか「ちょっと待って。一旦このまま置いておいて、あとで黄色を足すかもしれない」みたいなことを言ったりします。

この感覚は、とても大事な気がします。
合成染料やコンピューターに映し出される人工的な色ばかり見ていると「赤といえばこの色」「青といえばこの色」というように、感性というよりは固定観念で色を認識してしまうかもしれません。
しかし、自分の五感を使って色と向き合っていくことで「どんなニュアンスがしっくり来るか」というような、自分の感性と対話する回路が開いていくような気がします。

僕達は、照晃が生まれる直前に、愛知県岡崎市に1ヶ月ほど滞在していました。その目的は、「子どもを産む力は産前の古典労働によって育まれる」という考え方を進めていた吉村正さんがいらっしゃった(当時は引退していました)吉村医院に通うためです。

栄里は吉村医院と、隣接する「古屋(ふるや)」と名付けられた古民家に通って、薪割りや雑巾がけなどを中心とした昔ながらの労働(古典労働)をしながら、お産までの1ヶ月を過ごしました。そして、吉村医院での交流を通じて出会った人たちと、大きな河原の橋の下でベンガラ染めの場を作りました。
川で遊ぶ子ども、河原を走り回る子ども、お母さんと一緒に染めをする子どもの姿を見て、「手しごとする子と遊びたい子は、こうやって共存できるんだな」ということを感じたことをよく覚えています。

この話を思い出したのは、のどかさんが「子どもの疳の虫を出すには、土に触れさせるのがよいらしい」という話をしたからでした。

のどか

私たち、日常何気なく過ごしていると、つい頭に”気”が上りがちだと思う。足とかと手とかの末端からは意識が離れている感覚があるんだけれど、それを全身に戻していくときに、歩くだったり、手を使うことだったりが、全身に気が巡ったり身体感覚の回復に繋がっているなって思う。

そういえば、私が小さい時、「疳(かん)が強い子に土遊びをさせろ」ということを母が言っていて・・。どうしてその話が出たのか忘れちゃったけれど、土をいじったりとか、 塩水に手をつけると、その指先から疳の虫が出ていくらしく、その疳の虫がしゅるって出るのを見たことがあるとか、、その話、なんか面白いなって。

多分、虫ではなく、なんか、気がしゅるって抜ける感じかなと理解してるんだけれど、気がうまく循環できてないと溜まって爆発してしまうけれど、 大地や塩水に手をつけさせると気がうまく抜けて、外と中と出入りするみたいなことが起こるのかも。だから、昔の人たちは野良仕事とか子どもが地面で手を使って遊ぶことを大事にしてきたのかな。

*疳の虫:昔から赤ちゃんや子どもが特に原因や意味もなく泣いたりぐずったりする時、疳の虫の仕業と考えられてきました。今ではギャン泣きというそう。

僕は、2017年に「学校の中心に菜園を」「すべての子どもたちに菜園を」という思いを掲げながら活動している「エディブル・スクールヤード・ジャパン」の皆さんに招待されて、学校菜園の実践をしている東京都多摩市にある公立の小学校、愛和小学校の授業の時間を利用して子どもたちと味噌づくりをしたことがあります。

この学校には、たくさんの畑があり、水田があり、コンポスト装置があり、鳥小屋があります。そしてそれらの世話を子どもたちが主体的に関わっています。始業前、昼休み、理科や社会や家庭科の時間、そして放課後や休日に、子どもたちが土や草や鳥たちに触れています。そして自分たちの手で土を作っています。

学校の中に子どもたちが世話をする菜園がある、という状況が、のどかさんの言うように、疳の虫を出したりといったかたちで、子どもたちの心身に影響を及ぼしていると感じます。

のどか

私、アラタくんの足を見ていると、手みたいに動くなって思うことがあるの。アラタくんとうちの息子のトオムの足の裏は手のひらみたいに感覚が鋭いというか、細やかな動きをするというか。オラウータンとかチンパンジーみたいに、足の裏も手のように動く感じ。

実は足の裏もじっくり感じてみると、大地を掴むように歩くように歩くとか、どこに重心きてるなとか、もう少し細かく感じることができるし、足の裏の感覚を 感じ取りながら歩くとか何かを掴むとか、手のひらでやってるようなことを足でやってみると、めっちゃ面白いなって。アラタくんの足の裏は自由だなって見ながら、時々思っていることをちょっと思い出しました。

アラタ

その話を聞いて、関係あるような、関係ないような、なんだけど、手しごとって、すごく足元感だと思うんだよね。

すごく足元を大事にしていくというか、その足元に地球があるっていう、その感覚。ここで、もともと地球とか、すごく壮大なこと言ってるんだけど、足元な地球な感覚を語り合いたいなっていうか、大事にしたい、みたいなことを、話を聞きながら、感じています。地球ってそんなにでかい話じゃなくて、足元のことだよね、みたいな。「足裏に地球」ぐらいな感じ。

のどか

うちの息子は歩き始めてまもない頃から草履っこ。小学校の行事に参加する時とか、登山する時とか、年に3回ぐらいは靴を履くんだけれど、それ以外は雨の日も雪の日も草履で過ごしてる。今年入学した中学は、志望の理由の一つが草履で通えるってこと。

靴を履いていると狭いし足が呼吸できなくて苦しいのだとか。
中学に入って初めての川までお散歩の日、学校からは「川に入りたい子は靴で来てね」との履き物指定が。川に流されたり怪我しやすい草履やビーサンではなく靴かウォーターシューズをということだったんだけれど、息子は「俺、草履を流されたりしないんだけどなあ。。。」って。

多分、もう無意識に鼻緒を掴んで履いているし、草履は足の一部になっているから、よっぽど藪深いところへ行く以外は、結構草履だけでこなせてしまう感じになってる。

みなさん「ミサトっ子サンダル」って知っていますか。

僕は以前から、特に自然育児や自主保育などの取り組みをしている人たちから話を聞いていて、実物を見たこともあるし、自分で地下足袋を作るようになるまでは、日常的に履いたりもしていました。
このミサトっ子サンダルを子どもたちに履かせている 幼稚園では、子供が風邪ひきにくかったりする、というような色々なエピソードを聞いたことがあります。

最近は、春夏秋はたいていギョサンを履いて過ごしてます。そして冬を中心とした寒い時期には自分で染めたヘンプの地下足袋を履いています。

そうやって暮らす中で、たとえば長時間の草木染めや味噌作りや塩炊きを、靴を履きながらやるのと、ギョサンや地下足袋を履いてやるのでは、身体の使い方や、疲れ方、肩や腰の状態も大きく変わってくるということを実感しています。

ある時、島根県の津和野にある「糧」という名前の自然食レストランで味噌づくりワークショップを行った時に、そこのオーナーに「足半」という、先っぽしか履くところがない草鞋のようなものを勧められました。
「試しに使ってみてほしい」というので、その日のワークショップは足半を履いて行いました。そしてワークショップが終わって、片付けも終わって一息ついた時に「なんか今日は疲れ方が違うな。体が楽だな」みたいなことに気づきました。

「いつもと何が違うんだ。あそうか。足半履いていたのか。ほとんどカカトを使わずに、つま先で踏ん張って動いてたんだな。それでか。足半すごいな」と実感しました。

当日のイベントレポートはこちら 撮影:大江健太(糧)

「小股が切れ上がる」という言葉があります。この「小股」は、足の親指と人差し指の間のあたりを指しています。「ここは、足の丹田みたいなもの。ここで踏ん張るのが大事。」という話を聞いたことがあります。

僕も体感がありますが、裸足やミサトっ子サンダルやギョサンや地下足袋や足半を履くことによって「足の親指と人差し指が自由になっている」ことによって、肉体労働をやってる時の踏ん張りがよくなったり、疲れ方が変わってくるんですね。
味噌づくりにしても、塩炊きにしても、手を使ってるようで、時は足の使い方が重要な役割を果たしているんですね。僕が地下足袋を勧めている理由は、そういうところにあったりもします。

あらためて、「整体的手しごと」ということ。

ここで最後に、整体、というようなところから手しごとを見てみたいと思います。

僕は、2020年のロックダウン以降、オンラインミーティングなどが増えた関係もあって、「肩がこるなあ」とか「腰が重いな」と感じることが増えました。頭の疲れとか、目の疲れとかについても、今までと違うなと。そのようなことに気づいて、「どうやって調整していこうかな」と思う中で、改めて、手しごとを出来る機会があることのありがたさを実感しています。

具体的には、手しごとをすることで、頭に上っていた血がハラに落ちてくる感じとか、ディスプレイを見すぎて疲れた眼が自然物を見ることで休まるとか、手足の冷えが取れるとか色々な恩恵を感じます。
僕は草木染めをするとき、20リットルくらいの湯水が入ったたらいやバケツや鍋を運ぶことを繰り返します。その時、自ずと丹田を使って呼吸をしながら、腰を入れて重心を落としています。

そうしないと、重いものを持てないのです。バケツから大きなたらいにお湯を注ぐときも、鍋で煮出した染液を濾し取る時も、脇をしめて、腹で呼吸をして、つま先で踏ん張ったりしていますし、身のこなしに意識を向けていないと、3時間を越える作業のどこかでバテてしまう気がします。基本的に草木染めって肉体労働だな、と思います。

塩炊きをする際は、大きなかまどの前で座ったり立ったりを繰り返します。自然に、かまどの前で四股を踏んだりスクワットをしたりしています。その反復運動を1日、2日、繰り返しているうちに、自然に体幹が整っていくのがわかります。重心も下に落ちていて、気持ちが静まっています。

塩炊きの炊き始めの数時間は、氣が下に落ちていないこと、体幹がぶれていることを感じたりします。でも、半日くらいかまどの前で作業していると、氣が落ちて、体幹が整っていくことを感じるんですね。塩を炊くことで、塩が炊ける体が出来ていく。そんな感じがします。

自然なお産を勧める吉村正さんにお会いしたことがあります。吉村さんが休まれている床を訪ねて、茜で染めた麻ふんどしをプレゼントしました。「わたしのところには変な人ばかりが来るね」とおっしゃるので「類は友を呼ぶと言いますよね」とお返事して、しばし談笑しました。

先程も書きましたが、吉村さんは薪割りや雑巾がけ、火おこし、かまどでご飯を炊くなどの「古典労働」を勧めており、僕のパートナーの栄里も産前、毎日薪割りをしていました。

吉村さんは「生まれる直前まで、古典労働をしたほうがいい。1日2時間は歩いたほうがいい。と言っていました。今になって思うと、栄里の産後の体調の回復を、産前の身体作りが支えていた気がします。古典労働や手しごとの効果は、すぐではなく、何年も経ってからギフトとしてやってくる、ということがあるんだと思います。

かまどの中に小枝を組んで、火をつけて、息を吹いて、薪に火を移して、土鍋でご飯を炊くこと。土間を箒で履いて、縁側を雑巾がけする。そういった日々の営みが、心身を作っていく。その心身が暮らしの中で恵みを生み出していく。豊かさは、暮らしの中にある。その豊かさを、暮らしの中で分かち合う。

そんな「すでにある豊かさの循環」が行われる代表的な舞台の一つは、台所のような気がします。ということで、次回のテーマは、台所です。昔から続く、整体手しごとができる舞台としての台所。豊かさに出会い、豊かさを生み出し、分かち合える場としての台所。古い言葉でいうと厨(くりや)。英語でいうとkitchen。

次回までに「語源辞典」「広辞苑」「英英辞典」などを「手」でめくって引いておきます。どんな話になるか、僕自身とても楽しみです。日々寒くなってきましたが、みなさんもぬくぬくほっこりお過ごしくださいね。次回もおたのしみに!

今回の参考情報カタログはこちら

冨田貴史(とみたたかふみ) プロフィール

1976年千葉生まれ。大阪中津にて味噌作りや草木染めを中心とした手仕事の作業所(冨貴工房)を営む。
ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で和暦、食養生、手仕事などをテーマにしたワークショップを開催。著書『春夏秋冬 土用で暮らす』(2016年/主婦と生活社・共著)『いのちとみそ』(2018年 / 冨貴書房)『ウランとみそ汁』(2019年/同)、「未来につなげるしおの道」(2023年/同)など。

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