『手しごと』ウエルビーイング 連載第八回 未来につなげる味噌の道

こんにちは、『手しごと』ウエルビーイングのナビゲーター冨田貴史です。「手しごとウェルビーイング」という連載も、これで8回目になります。

前号と前々号と、2回にわたって味噌についての記事を書いているうちに、どうしても味噌の歴史について書きたくなってしまいました。なので今回は番外編的に、味噌の歴史に触れるような記事を書いてみたいと思います。

味噌はどうやって生まれたのか。味噌が生まれてから、これまでどのような道のりを歩んできたのか。どんな人たちが味噌に寄り添って生きてきたのか。

そのようなあれこれを知ることが「わたしたちはこれから、味噌と共にどのような道を歩んでいくのか」という未来をイメージする助けになると思っています。ということで今回は、いつもの対話形式ではなく、僕の一人語りでお届けします。

ハラの文化は、おなかの弱さに向き合うところから始まった

日本には「ハラ」にまつわる言葉がたくさんあります。ハラを割る、ハラを決める、ハラを据える、ハラに収める、ハラを探る、などなど。
日本に伝わる養生についての知恵を紐解いていくと「健康の要はハラにあり」といった表現に頻繁に出会います。消化器官の働きを助けること、胃腸を整えること。ハラ、おなか、消化器官、胃腸にフォーカスした健康法が主流化しているのは、なぜなのでしょう。その事を考えるヒントが、我が家のトイレに置いてある、この本にありました。

参考文献

『1週間に1つずつ 心がバテない食薬習慣』

著者:大久保 愛

出版:ディスカヴァー・トゥエンティワン

ー以下、本文より引用しますー

 じつは、日本人を含めたアジア人は、昔から胃腸が弱い民族といわれています。そのひとつめの理由が「ピロリ菌」で、胃の不調の原因として有名な存在です。胃酸の中でも生き延びることができるために、胃酸を中和して住みやすい環境をつくります。

 胃酸の分泌の低下は、腸内環境の悪化につながります。本来胃酸があることによって分解されるタンパク質が分解できなかったり、胃で排除されるはずだった菌やウイルスが小腸にとりこまれて繁殖し、腸の中でガスがたまったり、栄養吸収がジャマされてうまくいかなかったりします。また、このピロリ菌ですが、アジアに生息するピロリ菌と欧米に生息するピロリ菌は種類が違い、アジアのピロリ菌のほうが、胃潰瘍や萎縮性胃炎、胃ガンなどの発生リスクが高いといわれています。それが起因し、胃ガンの死亡率は、日本、中国、韓国、モンゴルなどにおいては高く、欧米では低いといわれています。

 日本人の胃腸が弱いもうひとつの理由として、日本特有の湿気の多い気候があります。

 漢方では、湿気が多いときは、胃腸の働きが低下すると考えています。日本を含むアジアは、太平洋から吹きそそぐ湿った風により、湿度が高い地域です。そのため、昔からアジア人は、胃腸の働きを整えることが体調を整えるための最優先事項としてきました。

この本に書かれているとおり、日本人は元々胃腸が弱かったのですね。そして、その現実に向き合っていく中で胃腸を整える知恵が育っていったのですね。とても納得がいくし、共感します。

僕自身、幼少時代からとてもおなかが弱かったし、今思えばそれが原因で腰も痛めていました。そして、そのことに向き合って養生法を学んでいくうちに、おなかも腰もいい感じになってきました。今思えば、胃腸が弱かったという経験があるからこそ、胃腸をよくする知恵を学びたいというモチベーションが維持されているのかもしれません。

自らの弱点と思える部分や不安要素、つらい状況に向き合って、跳ね返す力を「レジリエンス」と言います。たとえば「コミュニティ・レジリエンスがある」と言うと、そのコミュニティの中で何かトラブルがあっても、そこに向き合う力、克服する力があるというような意味になります。東アジアというコミュニティにおいても「胃腸が弱い」という現実に向き合って克服してきた歴史があったんですね。

海藻を食べる海洋民族の腸内

人間のおなかの中に何兆匹も存在している腸内細菌は、その土地土地の様子、状況に合わせて変化、進化してきています。

僕達が暮らしている日本列島は、西側に巨大な陸地が広がっていて、東側には広大な海がある、というような環境になっています。そして日本は、数え切れないくらい多くの島が集まって出来ている国です。政府発表では14,125島となっていますが、政府のカウントから外れた島も含めたら、もっともっとたくさんですね。そんな僕達の先祖たちはたくさんの海藻を食べて生きていました。

海藻研究者たちの文献を見ると、日本人は昭和初期までは50種類以上の海藻を食べていたそうです。ちなみに大陸の真ん中あたりの、山に暮らすような人たちは、これらの海藻の多くをおなかで消化できないそうです。日本人が、ある西洋人に昆布料理を提供したところ「こんな紙みたいなものを食べさせるのか」と怒られたそうです。

そして、実際にその人が海藻を食べても、十分に消化されずに排泄されてしまったそうです。でも、海洋民族である日本人が海藻を食べると、その海藻を腸内細菌が消化して、様々な栄養分に変換されます。
日本列島に暮らす人たちは、海の生き物たちを食べることで、それらの生き物に寄生している微生物たちも胃腸の中に取り込んできました。そうやって、海藻を分解して栄養に変えるような微生物が、腸内に住むようになったのです。

日本人が食べてきた海藻の例

あおさ、昆布、がごめ昆布、岩のり、銀杏草、エゴノリ(エゴ草)、いぎす、紅藻、わかめ、めかぶ、ふのり、アマノリ、スガモ、アジモ(あまも)、ひじき、ボウアオノリ、スジアオノリ、ヒラアオノリ、ウスバアオノリ、テングサ、オゴノリ、ミル、シラモ、ユナ、ソゾ、ミリン、ウミソウメン、ハバノリ、キリンサイ、ホンダワラ、クロメ、もずく、カジメ、ツノマタ、トサカノリ、オニクサ、マクサ、ロッカク、アミクサ、など。

参考文献

様々な海藻を食べる文化が受け継がれるということは、様々な海藻が生きられる生態系を守ることにも繋がります。そして、その海藻を採取する仕事、加工する仕事、販売する仕事、調理する仕事、それらを食べる食卓の文化が受け継がれるということです。

おなかの中の菌達が先祖代々、そのライフスタイルを受け継いでいるように、僕達人間も、その土地の気候風土に根ざした食養生の知恵を受け継いでいきたいなと、あらためて思います。
そんなこんなで、東アジアの島国の、この土地の発酵食品の代表格でもある「味噌」と僕達の関係の歴史を紐解いていきたいと思います。

東アジアの多様な発酵文化

日本列島を含む東アジア地方は、温帯モンスーン気候に属しています。前述の本の中に「太平洋から吹きそそぐ湿った風により、湿度が高い地域」とある通り、温暖で湿気がある気候です。そんな環境だからこそ元気に育つ微生物の代表が「かび」や「乳酸菌」や「酵母」です。

その中でもとりわけ「かび」のイメージが悪いですが、本当は「かび」がいなければ僕達は生きていくことが出来ません。その話をしだすととても長くなりそうなので端折りますが「かび」という言葉は古くは「かみ」と呼ばれていました。

味噌に使われる「こうじかび」の「こうじ」という言葉をたどると「こうち」となり、その前は「かむち」であり、その前は「かむたち(加無太刀/加牟多知)」と呼ばれていました。かむたちは「神たち」という意味でもあり、発酵・解毒・分解といった目に見えない元素転換の働きを「神様の働き」と見ていました。

日本列島には古くから「口噛み酒」というものがありますが、これはお米を噛むことで消化酵素が分泌されて、お米のでんぷんを糖に変えて、その糖を空気中の酵母に食べさせて、アルコール発酵させて作るお酒です。日本列島には「かむこと」と「かびをつけること」をそれぞれ神の働きと見て大事にしてきた歴史があります。

その他にも、微生物のはたらきによってつくられる発酵食品はたくさんあります。
野菜や野草を塩で揉んで発酵させる漬物のようなもの。蒸したり煮た大豆にかびをつけて、塩と合わせて仕込む、みそのようなもの。 みそを仕込む木桶の底にたまっていた発酵液からうまれる「たまり」のようなもの。 穀物や果実を発酵させてつくるお酒のようなもの。 魚を漬け込んだ「くさや」や、魚を漬け込んだ汁から生まれる「しょっつる」や、ふぐの卵巣を味噌に漬けたもの、魚や獣の肉を塩で漬けたものや、それらを干したもの。

そして、太平洋に面した東アジアの各地では、湿気が多くかびが育ちやすい条件を活かして、ケカビやクモノスカビ、コウジカビなどの助けを借りた発酵食品づくりがさかんにおこなわれています。

発酵食品といっしょに食べなさい

今から2500年ほど前に、孔子が語ったと言われる言葉の中に「不得其醤不食」というものがあります。孔子は「儒教」の始祖といわれる古代中国の思想家です。彼の名言をのちの時代にまとめた「論語」という書物は東アジア全域で大ヒットして、日本文化の成り立ちにも大きな影響を及ぼしたと言われています。

そして「醤」という言葉は日本では「しょう」「ひしお」と読まれる文字で、もともとは発酵食品全般を表す言葉でした。さきほどの「不得其醤不食」という言葉にふり仮名を入れると「其の醤を得ざれば食はず」となります。その意味は「適切な発酵食品が食卓にないのなら、食事自体を控えたほうがいい」ということになります。現代で言ったら「食卓に味噌や梅干しや漬物や醤油がないなら、食事を控えたほうがいい」という感じでしょうか。

発酵食を取り扱うのは公務員の仕事だった

そんな孔子の時代からさらに遡って、3000年以上前の古代中国、周の時代には「醤」と名付けられた様々な種類の発酵食品をつくるための国家機関がありました。今の言葉で言うと「発酵省」みたいな感じでしょうか。その中に「味噌庁」や「漬物庁」があって、さらにその中に「豆味噌部」とか「米味噌部」とかがあるような感じで、発酵食品を作ったり、それらのレシピを管理する、専門の公務員職が多数ありました。

当時の文献である『禮記(らいき)』には、120種類以上の発酵食品を作って管理していたという記述があります。それらの発酵食品は、専門の職人によって醸造、管理され、その作り方は記録され、オフィシャルの会議の席や式典の食卓で使用されていました。

それらの食卓の作法についての記述の中には「これらの発酵食品は”食の主”なので、食卓の一番手前に置くべきである」とあります。どんなものを食べるときも、これらの発酵食品をつけて食べましょうね、ということなのだと思います。そしてこれらの発酵食品は、当時の国家公務員たちに給料の一部として支給されていました。

この120種類以上の発酵食品たちは、大きく4つに分類されています。

  • 穀類を使ったものが「穀醤(こくびしお)」
  • 野草や野菜を使ったものが「草醤(くさびしお)」
  • 魚介類を使ったものが「魚醤(うおびしお)」
  • 獣の肉を使ったものが「肉醤(ししびしお)」

といった感じです。

当時のレシピを読んでみると、牛脂や豚の内臓、羊や鹿の肉や骨を、お酒や塩に漬けて干していたことなどがわかります。そんな中国大陸由来の発酵文化は、今から1500年ほど前に「律令制」という政治・経済システムが輸入されるようになった頃から、同時に流れ込んできたようです。

醤、海を渡って日本列島へ

日本列島に、徐々に醤の文化が入ってきて、もともとあった発酵文化と交わって、奈良時代くらいに味噌の元が生まれたと言われています。
「大宝律令」や「万葉集」「延喜式」といった書物の中には、醤のような発酵食品として「未醤(みしょう)」や「未曽(みそ)」「味醤(みそ)」「味曽(みそ)」といった言葉が記録されています。これらが、今僕らが「みそ」と呼んでいるものの原型ではないかと言われています。

その一方で、どんな文献を読んでみても、以下のような言葉に行き当たります。それは「味噌のルーツについては様々な説が存在しており、はっきりしたことはいえない。とりあえず、味噌が日本で生まれたものであることは間違いない」というような言及です。
日本最古の漢和事典である『倭名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)』には、味噌の語源について「まだ詳らかではない」と書かれています。

民衆の手に渡って、花開いた味噌文化

日本で生まれた味噌は当初、公家や貴族など一部の人達だけが嗜むものでした。それまで実権を握っていた天皇家やその取り巻きであった貴族たちに対してクーデターを起こして、日本で初めて武家による政権運営が始まったのが鎌倉時代です。鎌倉時代が到来したというのは、公家や貴族による独裁政権的な社会に対して民衆が革命を起こしたという側面もあったわけです。

政権をとった武士たちは一年中いくさをしてるわけではなく、その多くは日常的に田畑で農作業をしていました。ということは、武家社会は極端に言い換えると農民社会でもあったわけです。
そして鎌倉時代以降、味噌がどうなったかと言ったら、いわゆる農家の食卓に並ぶようになりました。公家や貴族が食に関する実権を握っている時代には、彼らは常に自分で調理をしていませんでしたし、味噌も「食卓に並ぶツマミやソース」のように使われていました。

しかし、鎌倉時代に味噌が農家の食卓にたどり着いた後は、味噌の使用方法の多様化が爆発的に進みました。たとえば農家と近い関係にあったお寺のお坊さんたちが「味噌はすり鉢ですったら食べやすい」ということを言い出しました。さらに「すった味噌の入ったすり鉢にお湯を入れたら美味い」となりました。さらに「野菜と一緒に煮たら美味いじゃないか」となり、味噌汁が生まれました。

このようにして、それまでお膳に並べられ、つまみやソースのように使われていた味噌が、汁ものとして日々の食事に組み込まれていきました。
さらに武士たちは、贅沢三昧の貴族の暮らしに反感をいだき「贅沢な暮らしは不健康の元だ」という考えを持つ人も多かったので、その反動で質素倹約が流行りました。そんな質素倹約の代表的な食事法が、焼き飯に味噌汁をかけて食べる方法です。
この「汁かけ飯」も、鎌倉時代に流行りました。そして、みそ汁を中心とした質素で健康的な「一汁一菜」の食文化が生まれ、その後も長く受け継がれていくことになっていったのです。

味噌はいくさを知っている

そんな味噌文化は、皮肉にも戦争の歴史に支えられてきたところがあります。戦国時代の真っ只中、伊達政宗で有名な伊達家はかなり広範囲の地域を治めていたこともあって、一年中、多くの兵隊が東西南北を走り回っていました。そして、彼らが遠征したり、出張する際の携帯食として干したご飯や、腐りにくい味噌の研究開発が盛んに行われました。

その中でも「仙台乾し飯(ほしいい)」と「仙台みそ」は、全国区の知名度を持つようになりました。これらの養生携帯食品は、豊臣秀吉の命令で始まった朝鮮への長期遠征の時にも活躍しました。全国からやってきた兵士たちが朝鮮半島で暑い夏を過ごす間に、各地から持ち込まれた味噌の多くが腐敗して食用にならなかったそうです。

そんな中で、伊達政宗率いる伊達家の持ち込んだ「仙台みそ」は少しも変質することなく味もよかったそうです。そして、伊達家は朝鮮出兵の間、他の地域からやってきた兵士たちにこの「仙台みそ」を分け与え続けたそうです。いくさの中だからこそ「命のためのギフト」が心にしみたのでしょうね。仙台みそは、この朝鮮出兵を堺に、全国的に有名になっていきます。

日本初のパブリック味噌蔵=御塩噌蔵

江戸時代になると、全国各地の藩はそれぞれ、いくさに備える形で武器や軍用金、米や塩、みそなどを城の中に備蓄するようになっていきました。そんな中で伊達家は、ふだんから城の中に、日常的に皆が食べるための味噌を作り続けるために「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という味噌蔵を作りました。

この「御塩噌蔵」の敷地の中には、麹を仕込む部屋や味噌を仕込む部屋、味噌を熟成させる部屋などがあります。さらに、糀をつくる職人や、味噌を仕込むための様々な作業をする職人たちやその家族が暮らすための長屋もありました。いわゆる「味噌作りシェアハウス」が味噌蔵の隣にあったわけです。

仙台藩の「御塩噌蔵」見取り図

この御塩噌蔵システムは、江戸にあった仙台藩の出張所(仙台藩下屋敷)でも取り入れられることになります。

塩辛い味噌が主流である東北地方から江戸に赴任してきたスタッフの多くから「江戸の甘い味噌が合わない」という声が上がり「では、自分たちのお気に入りの味噌を作れるようにしよう」ということになりました。そして、伊達藩で作られた米、大豆、塩、糀を船で運び、品川の鮫津でおろされ、大井町の仙台藩下屋敷の中で、味噌を製造していました。

そして、江戸の市内に7ヶ所あった江戸出張所の支所のようなもの(藩邸)に常駐するスタッフ3000人に、この味噌が支給されていたのです。東北から「味噌を送る」のではなく「味噌を作る原料を送って、自分たちで作らせる」ことで、味噌の自給力を育てて、保護したんですね。自給や自治についての明確な意図を感じます。

伊達政宗は、食養生についての造詣が深く、味噌作りや養蜂、繊維産業や染織業を育成して保護することに力を注ぎ続けたといいます。まさに、コミュニティレジリエンスを育てることに意識的だったのが伊達家だったのでしょう。

味噌をいくさが追い込んだ

そうやって続いてきた「仙台みそ」とそれを支えるコミュニティは、幕末から明治初期にかけて続く凶作と戦乱の影響で、窮状に立つことになります。

1857年に鎖国が解かれると、海外に攻めていこう、軍備を増強しようという機運が高まっていきます。そのような空気感の中で、仙台藩に対しても「軍事費を捻出しなさい」という圧力がかかっていくようになり、その影響で藩の財政は困窮していきました。国税や中央政府への献上金の額は上がり、その取り立ては厳しくなっていきます。

そんな中で「なんとか自分の儲けを確保しよう」と考える商人たちに煽られるように市場の競争も激しくなります。物価は過剰に釣り上げられ、味噌製造者の中には、その原料となる米や大豆、塩を買うことが出来なくなるような者も出てくるようになります。さらに明治政府に対して大量の食糧を献上することが求められ、藩内に食糧が不足するような事態になっていきます。

家康がパトロンになって支えた八丁味噌

 豆みそといえば「八丁みそ」の名を挙げて、豆みその代名詞のように使われているが、じつは江戸時代からの岡崎の地名、八町村に由来する商品名である。地名は明治以降、八帖村→八帖町となって現在に至っている。
(中略)
 岡崎で八丁みそをつくる企業は二社あり、その創業は早川久右衛門が1645年、大田弥治右衛門が1696年とされ、みその企業としてはもっとも古い歴史を持つ。ある時期、両社ともに室町時代の創業にさかのぼらせて本家争いをしたこともあったが、現在では江戸時代初期の創業を定説として、早川家の「カクキュー八丁味噌」と大田家の「まるや八丁味噌」が併存している。

ー以上『みそ文化誌』より引用ー

戦国時代の後期、長期熟成豆味噌の代表格である八丁味噌は、腐りにくく、なおかつ栄養価が高い携帯食として重宝されていました。八丁味噌の蔵は、徳川家康が産まれた岡崎城から八町(約800m)の距離にあります。家康は、自身の居住地にもなる江戸城を建立する際に、この味噌を運んで職人たちにも食べさせていました。

この八丁味噌は、長期熟成の豆味噌です。豆味噌に使われる豆麹は、米糀や麦麹よりも作るのが難しいです。さらに、この味噌を仕込むには六尺(高さ2メートル以上)の樽で2トン以上仕込むのが常です。

まるやの中には、高さ3メートルほどの味噌樽が並んでいます。蔵の中に入ってみると、まるでどこかの神殿のような迫力がありました。この樽を作る技術も、石を円錐状に積む技術も、代々伝わる特殊技能です。

そして、発酵熟成には3年以上かかります。そういった様々な理由があいまって、仙台みそのように「江戸で自分でつくって食べなさい」と言うのは、かなりハードルが高かったのでしょうね。そんな特殊な八丁味噌が江戸に届けられると、岡崎出身の人たちだけでなく、全国から来ている職人たちにも振る舞われました。

この八丁味噌を食べて「口に合わないな」という人も居たようですが「なんだこれは!う、うまいじゃないか!」とか「これは、こういう料理に使えるじゃないか!」となってハマってしまう人も少なからず居たようです。岡崎のローカルな味噌である八丁味噌が広く知られるようになったのは、この頃からだと思います。

蔵の見学も受け付けている「カクキュー」。敷地内に食堂もあります。
こちらはそのお隣にある「まるや」。見学受付、売店コーナーなど充実しています。

八丁味噌蔵の周辺には、味噌を売る者や運ぶ者、味噌を使った加工品を作る者たちが暮らすコミュニティが形成されていました。さらに、味噌樽を作る職人、樽を作るための巨大なカンナを作る職人、樽のメンテナンスする職人、河原から石を運んでくる者、それを積む者などが暮らすコミュニティが形成されていました。

八丁味噌は、仕込んでから3年たってようやく販売して収入を得ることが出来ます。そこで家康は、味噌を仕込む時点で資金を提供したり、味噌の買い手を斡旋するなどして、地域の味噌屋を支えていました。そして前述の通り、江戸城建立の際には、味噌を大量に買い取って運ばせ、大工や飛脚に食べさせていました。

徳川家を守り支えた八丁味噌蔵を、徳川家が守り支えたのです。これは、政治がローカル経済を守る理想像の一つではないかと思います。

八丁味噌の苦境

そしてこの八丁味噌も、日本の開国と対外戦争の煽りを受けて衰退していきます。
鎖国を解いた日本社会は、世界に広がる軍産官複合型グローバリズムに飲み込まれるように侵略志向を高めていき、他国との戦争を盛んに行うようになります。その影響で、八丁味噌は軍事物資としての供給を求められるようになります。

そして1939年、軍事統制と並行して行われた低物価政策によって、不条理な形で値切られるようになるのです。豆味噌は前述の通り、米味噌や麦味噌とくらべて熟成期間が長い味噌なので、その分だけ人件費や光熱費、施設管理費などがかさんでいきます。
それらの経費は当然価格に乗せないと元が取れないので、値下げにも限度があるのです。しかし当時の日本政府はマスメディアを利用して「値下げに応じない八丁味噌は、いわゆる贅沢品である」というプロパガンダを流して、値下げへの圧力を強めていきました。

この動きに対して八丁味噌を製造する二社は連名で「八丁味噌は適正な価格設定に基づいており、その価格には正当な根拠があります」ということを商工省に訴えました。しかし、この訴えは受け入れられず、ついに1940年8月に八丁味噌蔵は歴史上初めて、休業することとなりました。

さらに1941年には、衆議院請願委員会に「八丁味噌の公定価格を引き上げることに関する請願」が行われましたが、委員会の返答は「意見は理解できるが、非常時であるから国策に添ったみそをつくるように」というものでした。

以下、当時まるやとカクキューの連名によって出された休業宣言の一部を紹介します。

 右指定価格は、従来の八丁味噌公価の三分の一の引下げにつき、到底このまま営業続行不可能の事とあいなり申し候。

 事ここまでに至る迄には当局各方面に対し、八丁味噌の実質価値など詳細具申陳情いたし候へども、不幸にして我々の主張をうけいれられず、遂には事実上製造禁止と同様の立場とあいなり、甚だ遺憾の次第に御座候。

 この際一次的にも臨時休業致すことは甚だ不本意ながら、甚だ御迷惑の儀と存じ候えども、右実施の九月一日より当分臨時休業のやむなき事とあいなり申し候。

 まことに謹んで永年のご愛願を拝謝して併せて右御報告申し上げ候。

八丁味噌蔵の休業は戦後1950年まで続きました。
そして戦時統制が解除された後は、大豆の生産量の激減、資金難による人員整理、戦後GHQによる食品配給による庶民の嗜好の変化による味噌離れ、味噌の販売店が戦災や廃業などで激減したことなどが影響し、豆味噌業界そのものが衰退して今に至っています。

カクキューの敷地内に干してあった味噌樽。6尺から8尺で仕込む味噌の量は数トン単位。買い手がつかなければ、何トンという在庫を抱えてしまうリスクがある生産現場を支えるのは、地域にパトロンなき今となっては、私たち「買い手」であり「味噌の使い手」なのだと感じています。

岡崎にあるカクキューとまるやの味噌蔵は、隣り合わせに並んでいます。

僕が「味噌作りファシリテーター」として参加した「しあわせの経済 国際フォーラム 2019  グローバルからローカルへ」というイベントに、まるやの丸井社長とカクキューの品質管理部長の野村さんが来ていました。その時の出店場所も、隣り合わせでした。
「作り方がほとんど一緒なのに、味が違うんだよね。不思議だよね」とか言いあったりしていました。うわべじゃなく、本当に仲がいい感じでした。

ここで唐突に音楽の話をしますが、ヒップホップの世界には「フッド」と「フックアップ」という言葉があります。「フッド」は地元のことを表します。
イーストロスアンゼルス、とか、サウスロンドンとか、サンフランシスコ湾東側のオークランドとか、東京都北区の王子とか。フッドを大事にするとか、フッドに根ざすとか、言います。「フックアップ」は、フックしてアップすること。つまり、誰かを引き上げるみたいな意味です。

自分の楽曲にフッドの仲間をフィーチャリングしたり、自分のライブのステージに仲間を上げて、彼らの知名度を上げることに貢献するとか。対立して戦うのではなく、お互いを称え合って、称え合うことで、どちらかが勝つのではなくて、フッド全体が上がっていく。ひいては、ヒップホップ・カルチャー全体が上がっていく。

そういう文化が、ヒップホップに限らず、ジャズやレゲエなど、様々な音楽の世界に見受けられます。そして僕は、味噌の世界にもそういう雰囲気を感じます。多様な魅力を持つ、それぞれの味噌を、上げあっていく。そうすることで、味噌文化そのものを上げていくという意志を感じるのです。

ちなみに、前述のイベントの中で、まるやの丸井さんとカクキューの野村さんもまじえて、みんなで味噌を作りました。丸井さんは「米みそ作ったのなんて何十年ぶりだろう。まるやに入社して以来、初めてじゃないかな」と言っていました。

米味噌、麦味噌、豆味噌の生産者も巻き込んで、参加者みんなで味噌を仕込みました。
左は『ラダック 懐かしい未来』の著者であり、映画「幸せの経済学」の監督でもあるヘレナ・ノーバーグ=ホッジ、右はこのイベントの主催メンバーのひとりであるソーヤー海。

味噌文化を育むために、ひとりひとりがメディアになる

僕は、味噌屋ではありません。味噌業者ではないし、販売のための免許がないので、売ったら違法です。でも、だからこそできることがあると思います。それは、人と人をつなぐこと。味噌の価値を伝えていくこと。僕達ひとりひとりが、メディアになれるということ。

メディアの語源は、メディウムです。これは今でいう「ミディアム」のことですが、その意味は「何かと何かの間に立つ」ということです。その役割の一つは「誰かが味噌に出会う入口をつくること」だったり「味噌に関わる人と、味噌を初めて知るような人をつなぐこと」だったりすると思っています。

そしてその入口や出会いの場は、多様であればあるほどいいと思っています。というか、もともとみそ文化ってそういうものだったんじゃないかなと思います。競争原理にさらされながら、共生原理がちゃんと効いている。それが味噌文化の素晴らしさじゃないかと思っています。

参議院議員会館の地下会議室で「アースデイ永田町」というイベントを2015年〜2019年に開催していた時は、毎回、参加者みなで味噌を仕込んで、参加してくれた議員さんと秘書さんに配って回りました。
「アースデイ永田町」のために地下会議室を予約してくれたり、開催を陰で支えてくれた川田龍平議員。「議員会館の食堂の調味料を変えたい」と語ってくれました。その願いを叶える道のりはこれから先に続いていきます。
元首相でもある菅直人さんは「アースデイ永田町に来ると気持ちが落ち着く」と言って毎年来場してくれました。忙しい日々の中でオーガニックカフェや自然食品店に行く暇もない彼らに対して「彼らの職場に、自分たちがよいと思うものを直接届けに行く」ことは、八丁味噌を江戸城に届けていた歴史の継承の一つだと思っています。

アースデイ永田町で仕込んだ味噌は、糸数慶子元参議院議員の議員事務所の台所に置かせて頂いて、熟成したらイベントに来場してくれた議員さんと秘書さんたちに配って回っていました。

味噌樽の中では、党派を越えてそれぞれの常在菌が助け合っています。善悪二元論を越えて多様な個性をわかりあう世界を、わたしたちは微生物たちから学ぶ時代に入っていると感じます。
ひとりひとりがそれぞれの個性を持っているように、菌がそれぞれ個性を持っているように、味噌は樽ごとに味が違い、地域ごとに作り方が違い、その年ごとに仕上がり具合が違うもの。

味噌との出会いはまさに一期一会。毎日の味噌との出会いを「当たり前」のものではなく、出逢えたことが奇跡の「有難き賜り物」として愛でていきたいと思います。その愛が、味噌の未来を明るく照らしていくのだと思います。

味噌の歴史、味噌の今、そして味噌のこれからについて、ひとりひとりが感じたことを語り合い、耳を傾け合っていくことで、味噌文化の美しさを育んでいけたらと心から願っています。

今回のオススメBOOK

冨田貴史(とみたたかふみ) プロフィール

1976年千葉生まれ。大阪中津にて味噌作りや草木染めを中心とした手仕事の作業所(冨貴工房)を営む。
ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で和暦、食養生、手仕事などをテーマにしたワークショップを開催。著書『春夏秋冬 土用で暮らす』(2016年/主婦と生活社・共著)『いのちとみそ』(2018年 / 冨貴書房)『ウランとみそ汁』(2019年/同)、「未来につなげるしおの道」(2023年/同)など。

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