
『手しごと』ウエルビーイング 第11回 ~庭から始まる『いのち』を育む手しごと~
こんにちは、『手しごと』ウエルビーイングのナビゲーター冨田貴史です。
第11回のテーマは「庭」です。現代の庭というと生け垣や塀で囲まれた限られた空間のようなイメージもありますが、もともとはどんなものだったのでしょうね。
カムワッカの三人との対話の中でも、話はどこまでも広がっていきそうな感じがしました。今回は、そんな「庭」というフィールドから、手しごとの可能性をゆっくりとたどっていきます。
前回の梅特集に対して、沢山の友人から好反応をいただきました。
梅干しづくりは、心身のウェルビーイングにつながる手しごとの王道なんだな、と思いました。記事の中でも触れたとおり、梅干しの歴史は長いですし、民間療法の代表格でもあったようです。ひと昔前までは、庭に梅の木があって、梅干しは自家製が当たり前という時代が長かったように思います。
そして、僕らのおばあちゃんの代くらいまでは、庭で採った果実を台所で仕込むという作業が日常、という家も多かったのではないでしょうか。しかし、今まわりを見渡すと、多くの家の庭はとても狭く、マンションやアパートといった、庭のない住まいがほとんどだと思います。
僕が最近まで住んでいた兵庫県伊丹の家には、梅、柿、文旦、柚子などの木がありましたが、周囲には庭に果樹がある家はほとんどありません。ちなみに、僕の職場の一つである冨貴工房がある大阪中津には、そもそも庭のある一軒家は皆無に等しく、大きな駐車場やホテルが更地になって、50階以上のタワーマンションに入れ替わっています。身の回りから、庭がどんどんなくなっています。
そして、このままでいいはずはないよね、と思っているけど、考えないようにしている人も少なくないのではないでしょうか。と同時に、都会を悪者にしないでほしい、庭がない暮らしをしている自分や友人を責めないでほしい、という気持ちを抱いている人も少なくないでしょう。
かくいう僕も、その一人です。庭がアスファルトやコンクリートで塞がれていたとしても、そこにバケツを置いてお米を育てることもできるし、プランターで果樹や野菜を栽培することもできます。たとえばこんな本があります。

「やさいがよろこぶ、”なちゅらるプランター” 小さな大地から始まる物語」
語り・監修:三浦伸章
著・編集:上野宗則
出版: SOKEIパブリッシング
この本は、山口県下関でゆっくり小学校という交流の場を営む上野さんという友人が編集、制作した本です。この本を読むと、ああそうか、こんなに気軽に野菜と触れ合うことが出来て、その体験を通じて自然とのつながりを実感できるのか、という気持ちになります。

僕の仕事場である冨貴工房には庭がないので、コンクリートを割って剥がして、そこに土を入れて、漬物石やブロックで囲んで小さな畑を作りました。



庭って、交流が起きる場所のようなイメージがあります。内と外の交流であり、家族以外の誰かとの交流。それが応接やただお茶飲むっていうだけじゃなく、何かしらの共同作業が発生するようなイメージ。
井戸端会議じゃないですけど、例えばそこに何か台があって、茶摘みとか何らかの作業を一緒にするとか。庭って、手仕事の宝庫っていうか。もちろん機械も使ったりもするけどね。
例えば、単純に草むしりしたり、手入れしたり、庭を作ったりっていう、すごく手仕事感がある。誰かと何かする。ピクニックする、バーベキューする、焚き火するみたいなのも含めても手仕事な感じがする。交流をしながら、手を使って何かをする場っていうイメージですね。
庭という言葉には実際、「作業を行う場」という意味があります。
平らな場所という意味もあります。平らでないと何が困るかというと、一番は水がこぼれるということだと思います。平らな場所がないと、お湯を沸かせない、米も炊けない、染めもできないです。
海辺で塩を炊いたりするとよくわかるのですが、地面が平らな場所はほとんどありません。なので塩を炊くための作業は、まず地面を平らにするところから始まります。当たり前のことのようですが、誰かが平行をとって整地をしてくれているんですね。


ここで、庭という字を辞書で引いてみます。
【庭】 にわ テイ
建物の前のあき地。家の出入り口や台所などの土間。広い場所。物事を行う場所。作業を行う平らな場所。家のそばの農事に使う空き地。
草木を植え、山を築き、泉や池を設けて、鑑賞・逍遥などをする所。庭園。朝廷。役所。法廷。
まっすぐである。正しい。波の平らかな海面。転じて、穏やかな天候。日和。家庭。
ー参考:『広辞苑』『小学館 漢和辞典』『漢検 漢字辞典』『語源由来辞典』
「平らな場所」が転じて、平らな海のことも指しているのは興味深いことですね。
万葉集にはこんな歌があります。
笥飯の海の 庭よくあらし 刈薦の 乱れて出づ見ゆ 海人の釣船
ー柿本人麻呂 (万葉集 第3巻 256番歌)
笥飯の海:けひのうみ。福井県敦賀周辺の海のこと。古くからこの地は船の往来が多く、海外との交流も盛んだった。この地を守る「ケヒ神」は海上交通の守護神とされた。現在、この地には「氣比神宮」がある。
刈薦:かりこも。刈った真菰。刈り取った真菰はばらばらになりやすいことから「乱れる」にかかる枕詞になる。
笥飯(けひ)の海は、海面はとてもおだやか。そんな海に、漁師達の乗る釣り船が入り乱れているのが見える。
僕もこの海をたずねたことがありますが、落ち着いた凪の海原を眺めていると、気持ちまで平らになってくるのを感じます。

僕の中では庭のイメージは二つある。たまたまこないだ昔おじいちゃんたちが住んでいた家を見る機会があって。古い昭和初期に建てられた家で、懐かしいなってみんなで見てたんだけど。そこはお屋敷的な感じの別荘地だったから、でっかい石とかがあって。いわゆる枯れ山水的な感じ。石が三つ並んで飛び石があって。いわゆる眺める庭という感じ。
僕はずっとアパート暮らしだったから、僕の中のイメージって、結構そのおじいさんの家の庭だったりするんだよね。その一方で、1970年代以降の高度経済成長期に建った新興住宅街にある庭みたいなものも連想する。
芝生を世話して、お花を植えて花壇作ってみたいな。イングリッシュガーデンに近いのかな。その感じは、僕らの世代の中にある庭のイメージの典型でもあるんじゃないかな。近代・現代的な庭のイメージっていうか。
どちらにしても、共同作業の場所というよりは、眺めて愛でるものみたいな庭のイメージが結構強いかもしれないな。
ミネさんの紹介してくれた庭についての二つのイメージは両方とも、辞書に載っている「草木を植え、山を築き、泉や池を設けて、鑑賞・逍遥などをする所。庭園。」とつながるものだと思います。愛でるもの、鑑賞するものとしての庭ですね。
日本では、大和朝廷が出来て、その後、奈良や京都に京都ができるまで、ほとんどの人たちが野山か海辺に暮らしていました。都が出来てからも、都市生活をしていた人たちはごく一部だったでしょう。都市生活者が急増したのは、室町時代くらいからだと言われています。
それまで山野に暮らしていた人たちが都市生活を始めるにあたって、山や野原や海や川や池をミニチュアにしたような庭園を作って自然を懐かしんだのが、庭園の原型だと言われています。

私は幼少時代、わりと田舎の、広い庭がある家に住んでいたんだけど、うちの庭は共有スペースみたいになっていた。家の眼の前の庭が、親族で共有されてたんだよね。何かが植わっているって感じでもなかったんだけど、庭の裏に行くと果樹園みたいなところがあったりして。おじいちゃんが庭師さんに作らせたような、愛でる庭のスペースもあったり。
花壇の一部を掘り起こして、子どもたちが遊べるプレーパークみたいになっているところがあったり。なんかいろんなことが入り混じっている庭だったな。一緒に手仕事するような感じではなかったんだけど、いろんな機能を持った庭だったな。
そのあと、東京に出てきてからは、家に日陰の庭しかなかった。その頃の私は、近所の河原までうちの庭、という感覚を持ってた。外でご飯食べるって言ったら、外のテラスではなく河原にご飯を運んで、ピクニック状態で食べるとか。
河原のどこに何が植わってるかをだいたいわかってたから、季節ごとに実ったものを収穫しに行くみたいな感じで、庭に対する拡張感があった。自分の家の敷地内で完結すると結構苦しいっていうのもあったかな。
自分の活動領域がちっちゃな感じになっちゃう。閉塞感があるっていうか。だから、勝手に自分の中で庭の定義を変えて拡張させてたんだっていう風に今気づいた。なんか庭って言葉について思うだけで、その言葉の定義とか、感覚とかは違うのかな。
日本の文化っていうのもあるし、自分にとっての庭観(にわかん)っていうのもあるなって思った。
昔話の中に「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」というくだりが出てきます。そこは誰のものでもない「共有のエリア」だったのでしょう。そのような場所のことを「みなで共有し合う、誰のものでもない場」という意味で「入会地(いりあいち)」と言います。
そこには、誰もが収穫可能な芝がある。誰でも洗濯していい川がある。そこに行くと近所の人たちも作業をしている。そこで交流、対話が生まれる。
僕は、冨貴工房から徒歩5分で河原に出ることができたので、毎日のように夕日を見に散歩に出ていました。そして、内緒ですが藍の種を撒いたりもしました。毎年、5月になると蓬を摘んで、染め物をしたりもしていました。




領域を区切って境界線を引く感覚って「所有」についての考え方の反映なんじゃないかな。そうやって線を引くことで、自分のものではない空間に対してはすごい無配慮だったり、自分の空間に対しては、なんか踏み込んでこないでって感覚があったり。
最近、私はクズの芽を摘んできた。久しぶりに河原に行って摘んできた。「野原なんて自分に関係ない」って思うような人も、そうやって自分の空間になったら、その場に対する感覚が変わるのかな。
食糧難でなんとかでってちょっと心配する声が周りにも聞こえ始めたけど、あたりを見渡すと実はいっぱい食べるものあるみたいな。
「この空き地でもなにか作ったらいいじゃん」って前にたかさんが言ってて、映画を紹介してくれたけど。なんかそういう感覚をみんなで育めたらいいなぁって。
今、この記事を書いている途中でちょうど、友人のインスタの投稿が目に入ってきました。
野草マイスターの土肥律夫さんの投稿です。


都会で野草を摘む会
大阪の中津にあります量り売りのお店 @kikki_doさんとのコラボイベント都会のど真ん中にも素敵な野草たちたくさんいます。。大阪の淀川の河川敷を散策。。あれも食べれるこれも食べれると普段見向きもしない雑草が!!本で見るのと実物を見比べてそのギャップに皆様驚きの声。今はイグサ(畳のゴザに使われる野草)に穗がついててそれの天ぷらが美味い!!というわけで、イグサ、ヤブガラシ、セイタカアワダチソウを天ぷらにして試食しました。
今回もたくさんの子供たちが参加してくれて、何のとらわれもないピュアな眼差して野草を摘む姿が最高にかわいかった。。大きくなって ふと そういえば小さい頃野草摘んだなぁ。とか思いだしてくれたらなぁ。。とか思いました(^^)
そして試食。子どもたち イグサ美味しい〜!!やて^_^
都会の野草って実は完全に無農薬なんですよね。郊外の清らかななところでも農薬空中散布してるとこけっこうあったり。。摘んだ野草の効能や使い方などもいろいろお勉強。。すんごいニッチでディープな野草の世界。会が終わり帰り際にある女の子がお母さん!イグサ摘みに行こー!やて。。どんだけかわいいねん^_^
以上、土肥律夫さんのインスタグラムより、引用しました。
僕は、さきほどのどかさんが紹介してくれたドキュメンタリー映画『都市を耕す エディブルシティ』の配給窓口をしています。

この映画が掲げている問いの一つは「オーガニックな食材を手に入れられるのは、お金を持っている人だけっておかしいよね」というところにあります。
多くの場合、ある程度お金の余裕がないと、オーガニックな食品にアクセスすることは難しいです。そこが田舎であれば、家で採れた野菜を分けてもらうこともできるかもしれませんが、都市生活の中では「食品はお金で買うしかない」という状況になることがほとんどなのではないでしょうか。
そして、栄養が偏ると、身体だけでなく思考やメンタルにも影響があります。そうなると、より一層働いたり人と交流する気力もなくなっていきます。こういった状況を放置することなく向き合っている人たちの姿を描いた映画が『都市を耕す エディブルシティ』です。
アメリカのカリフォルニア、サンフランシスコ湾周辺では、誰が見ても明らかな位に貧富の差があります。貧しい人たちが暮らすエリア、富裕層が暮らすエリアがはっきり分かれています。日本では、貧富の差がある意味でブラインドされているため、この違いは見えにくくなっているので実感が少ないかもしれませんが、貧富の差は世界的に今もくっきりと、確かに存在しています。

町の中に、地域の誰もがアクセスできるコミュニティファームを作る人たちがいます。


公立の学校の真ん中に菜園があって、理科や社会や国語や家庭科の授業を行うような活動を広める人たちがいます。
自分たちの家族や友人だけでなく、その地域の中にいる「お金で食べ物を買えない人々」の存在を見逃さず、自分たちの暮らす土地で食べ物を作り、それを分け合う取り組みがあります。オーガニックマーケットで売れ残った食べ物を、路上で無料でふるまっていたりします。
消費者と販売者と生産者という線引きを壊して、みなで共同運営するローカルマーケットをつくったり、誰でも利用できる共同のキッチンを作ったりという取り組みもあります。それぞれの取り組みは別々に存在しているのではなく、地下茎でつながる薬草やキノコのようにつながっています。
それぞれの思いや未来像を分かち合いながら、それぞれのしたいことをそれぞれのスタイルでやりながら、助け合い、支え合っています。「自分達が変化になる」という思いと行動をもって、教育、経済、社会のありかたに変化を起こせる可能性が、食にあるという信念を分かち合いながら。
『都市を耕す エディブル・シティ』 (2014年/米国)
監督:アンドリュー・ハッセ / 日本語版制作・配給:エディブルメディア
映画概要
舞台はサンフランシスコ、バークレー、オークランドの3都市。
「空き地で、食べ物を作れるんじゃない?」
経済格差の広がる社会状況を背景に、新鮮で安全な食を入手するのが困難な都市を舞台に、一部の市民が始めたアスファルトやコンクリートをガーデンに変えて行く活動。それが共感を呼び、世界に大きなうねりを生んでいます。
「食が重要視されないなら 市民がその重要性を訴えるだけ」
「問題は山積みだけど 食なら人々の力で変えられる」
そんな思いから、健康で栄養価の高い食べ物を手に入れるシステムを取り戻そうとさまざまな活動が生まれて行く。そして、一人一人の活動がコミュニティを動かす力となり、社会に変化をもたらす。卓越した草の根運動のプロセスを実感できるドキュメンタリーフィルム。
監督アンドリュー・ハッセの言葉
そもそもサンフランシスコ湾周辺は、都市型農業の歴史のある場所だった。このエリアで行われてきた数々の市民活動の積み重ねの歴史の中で、先人たちの経験が受け継がれてきているから、いろんな活動をするうえでの考え方や戦術がとても成熟しているんだと思う。
でも、大事なことは、直接的な経験がないとなにもできないというわけじゃないということ。20歳そこそこの若い学生たちが始めたムーブメントも沢山ある。彼らは、知識はあったけど経験があったわけじゃない。でも「未来を変えることもできるんだ」ということを認識している事と、自分たちのビジョンを形にしようとする強い意志があれば、多くの事が起こり得るんだ。
・・・
この映画を作ったアンドリュー・ハッセは、2020年に僕達が行ったインタビューの中で「あなたが都会に住んでいようと、田舎に住んでいようと、都会の食のあり方に向き合うことは大事なことだ。なぜなら都会のあり方が世界全体に与えるインパクトはとても大きいのだから」と言っています。
2020年に行ったアンドリュー・ハッセへのインタビュー動画


最近、娘が通っている学校でエディブルスクール部っていうサークルが立ち上がって。なんか食べられるものを探しつつ育てつつ楽しんでいる中高生の話を、いいねって思っているところです。
僕は最近、のどかさんの紹介で「エディブルスクール部」のメンバー数人と交流しました。
彼女たちの前向きさや純粋さ、やりたいことをやっているんだというシンプルなモチベーションにとても共感しています。彼ら、彼女らは、今の時代の状況を五感と六感で感じ取っているんだろうな、と思いました。僕らが何を教え込まなくても、今がどんな時代かは、むしろ僕達よりわかっているんじゃないかな。そんな気がします。
そんな若い世代が、自分たちの感じたことを何らかの形にしていく時に、そのプロセスをサポートしていくことが僕達の役割なんじゃないかな、と思ったりします。新しい世代の思いや感性を汲み取って、それらを尊重して、大切にしていくことは「何かを教えること」以上に大事なことのように思います。
この数年、大学などの教育機関で映画『都市を耕す エディブルシティ』を上映したい、という問い合わせを受けることが増えています。そのような流れの中で出会った名古屋芸術大学の教員である小粥さんという方が、大学の授業外の時間に学生たちと活動する「EDIBLE CLASSROOM」というデザインプロジェクトを始めました。
自分たちの周りにある「食」にまつわる関心事にスポットをあてて、調べ物をしたり、そのことに関連する活動する人の元を訪ねたり、研究結果を発表する場を設けたりしています。
エディブル・クラスルーム
「食」×「ローカル」をキーワードに名古屋周辺エリアで、食の生産や流通、消費にスポットをあて、フィールドリサーチを遂行し、そこから得られた「気づき」を展示などを通してより多くの人たちと共有し、書籍等にアーカイブしていくプロジェクトです。

昨年は名古屋市内のビルの屋上を菜園にするプロジェクトも行われました。



なにかに関心を持ち、その関心を表に出し、向き合っていくことで、同じ関心事を持つ者同士が引き寄せ合って、新しい動きが生まれる。そういうムーブメントが、実は色々な場所で始まっているのではないでしょうか。
2020年にロックダウンが起こった時、僕は食糧の流通や自給のあり方を見直す必要性を強く感じました。そして、庭のコンクリートを剥がして、花壇を畑に変えていくということを続けてきました。


そして、近所に暮らす友人たちにも庭に来てもらう「ガーデンデイ」という日を設けて、持ち寄りご飯をしながら庭仕事をするという取り組みを続けてきました。
庭の管理人、世話人ではあるけれど、出入りは自由。そうすることで無法地帯になるかというと、一緒に共同作業をして、同じ食卓を囲むという行為があることで信頼関係や安心感はむしろ高まります。
共同作業、もっと言えば「意図を分かち合いながら行う共同作業」の大切さを思います。いのちの糧を分かち合う、という意図を分かち合いながら、その思いを耕すように共同作業をしていく。その重要性と必要性を感じたターニングポイントが、2020年だった気がします。
なにか大きなことが起こった時、大きな何かに気づいた時、そのタイミングを「生存本能にスイッチが入った好機」と捉えて大事にして、そこから変化を起こしていく。僕はそういった「理屈を越えた、本能としての変化」を大事にしたいと思っています。
以下は、当時の僕が書いたエッセイと詩です。今の自分へのリマインドの意味も込めて掲載してみたいと思います。
庭に入ったらまず何をする?
僕はまず、食べるものを見つける。
たとえば間引き菜。
たとえば木の実。
まずは、その場でつまみ食い。
野草や野菜や木の実といった「庭の一部」を口に入れたとたん、庭が自分の一部になる気がする。
そして、自分が庭の一部になる気がする。
それから庭の世話をする。
ぎゅうぎゅうになって窮屈そうになっている三つ葉を間引いて収穫。
重たそうにぶら下がっている樹の実をもぐ。
栄養を摂りすぎて太っている豆をつみとる。
食べることから始めるのは、たぶん生存本能。
そこから始めることで、ケモノや虫や鳥と対等の存在になれる気がする。
そして、彼らの気持ちが少しずつ分かるようになる気がする。
生きたい。
食べたい。
そういう本能を大事にしたい。
生きるチカラの原点は、本能にあると思う。
「たしかにこの土は、掘り起こしたほうが気が通るよね」と、畑を荒らすイノシシの気持ちがわかる。
「この新芽、つまみ食いしたくなるよね」と鹿の気持ちがわかる。
もともとニンゲンはそうやって、動物や植物とおしゃべりしながら、わけあったり、わかりあったり、渡り合ったり、せめぎ合ったりしながら付き合ってきたのだろう。
庭を、校庭を、空き地を、僕らの餌場にしよう。
プランターでも鉢植えでもいい。
自分たちで食べるものを、作って、分け合う。
それは、僕達の記憶の中に刻まれた、懐かしいあり方なのではないだろうか。
食の危機に向き合って、世界中で沢山の動きが始まっている。
それらの動きは、キノコのように根っこでつながっている。
それぞれのしたいことを、それぞれのスタイルでやりながら、助け合い、支え合っている。
離れていても、つながっている。
栄養を送り合っている。
希望を分かち合っている。
教育、経済、社会のありかたに変化を起こせる可能性が、庭にある。
小さな「栽培できるスペース」であり「共同作業の場」であった庭の本質を、改めて取り戻していきたい。
・・・
『Edible Garden 食べられるお庭』 (筆:2020/5/18)
思い返せば ばあちゃんちには、柿がなってた
思い出せば その柿は秋から冬にかけては、干し柿になってた
分け合って 食べてた
庭のものを 食べてた
柿に みかんに びわに 梅に
たわわになってた 食べられるお庭
犬も猫もねずみも みなで食べてもあまるほどに
たわわでゆたかな 分け合えるお庭
梅干しに 梅肉エキスに 梅干しの黒焼きに
柿の葉に 柿の葉エキスに 柿の葉お灸に
お庭で風邪をなおす お庭でケガをなおす
東洋医学 in my garden
民間療法のくすり箱 食べられるお庭
記憶の庭に 今もなっている 食べられるお庭
びわに 柿に みかんに いちぢくに
わたしに 家族に たわわなギフトが贈られる
家族に 友達に 鹿に 猿に いのししに 親戚に
ばあちゃんに じいちゃんに 土の中のあいつらに
みなで食べる 食べられるお庭
小さなお庭が活かす命 命は庭にいかされる
足元にある土が育む ゆたかな恵み
ゆたかなお庭を お祝いする
庭のくだものたちが 私たちの命を助けてくれる
多種多様な野菜と野草が 助けてくれる
安心が増える 健康が増える わけあうギフトが たわわに
庭にあふれるいのち わけあうことで広がるいのち
庭からゆたかな道がひらける
庭からはじまる ゆたかな平和
びわに みかんに うめ さくら
うめに うめぼし うめぼしくろやき
かきに ほしがき みかんに ちんぴ
びわに びわ茶に びわの葉エキス
柿の葉エキスに 柿の葉茶
ごぼんに れんこん にんじん たまねぎ
びわ にら にわ
庭にあふれるめぐみの嵐が連鎖する 季節をかもす 食べられるお庭
命のゆたかさ育む 庭で祝う
ゆたかな庭で祝う
あふれるめぐみに祈る 庭で祈る
庭から始まる すこやかな平和
すこやかさのうえに平和があるから
すこやかなからだを 庭とともに
エディブルガーデン 日本のふるくからのくらし 思い出す
家族でわけあう 近所でわけあう 動物たちとわけあう
微生物たちと一緒にたべる
自然のめぐりに感謝して 庭のめぐみを分け合うくらし

最近、マスメディアやsnsを見ていると不安や恐れや、終末思想のようなものがウイルスのように広がっているような気がします。その一方で、世の中を変えるための小さな希望の種は、実はそこかしこに沢山蒔かれているような気がしています。
最後に、僕が仲間たちと企画しているイベントへのお誘いと、庭にまつわるクイズをお届けして、終わりたいと思います。
イベント情報
まだ告知解禁前ですがご案内します。
僕が数人の仲間たちと運営している『都市を耕す エディブルシティ』の配給を中心にした活動をしている「エディブルメディア」主催で、9月7日に無料のオンラインイベントをします。
等にアーカイブしていくプロジェクトです。
<エディブルカフェ vol.2>
日時:9月7日 おそらく13時くらいから15時くらいまで
場所:オンライン(Zoomにて)
先ほど紹介した、エディブルクラスルームの活動のレポートをしてもらったり「学校給食」をテーマにして、参加する人たちみんなで語り合うダイアログをしたりします。
情報がまとまったら、エディブルメディアのホームページでご案内します。
最後に、庭と親しむためのクイズを出してみます。
ぜひ、ネットで検索せずに、うんうん唸ったり、書けるぞ!と思ったりして楽しんでみてください。
庭クイズ
以下の6つ、漢字で書けるかな?
- 「にわとこ」スイカズラ科の落葉低木
- 「にわたたき」セキレイの別称。尾を絶えず上下に振る姿が庭をたたくように見えることから。鶺鴒。
- 「ていきん」庭での教えの意から、家庭の教訓。家庭のしつけ。孔子が、急ぎ足で庭を通り過ぎるわが子を呼び止め、詩や礼を学ぶように教えさとした故事から。
- 「にわかまど」土間に築いてあるかまど。近世、正月三が日の間、入り口の土間に新しいかまどを築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。別名、庭囲炉裏
- 「うらにわには、にわにわとりがいる」
- 「にわから、はにわしゅつど」
答えは次回の記事の中で紹介します。
※ネットで検索して答えを知っても面白くないと思うので、うんうん悩んだりしてみてください。
庭にまつわるおすすめ情報

「やさいがよろこぶ、“なちゅらるプランター” 小さな大地から始まる物語」
三浦伸章(監修・語り)上野宗則(編集・著)
“自然な栽培方法"をたのしみながら、エコロジーを学べる本。栽培を通じて、植物とよい関係性を築いてもらえたら幸いです。 暮らしの場にプランターを置き、小さな大地から始まるいのちの物語を紡いでみませんか。

著者:梨木香歩 出版:新潮文庫
環境活動家で古本屋の店主でもある坂田昌子さんがおすすめする小説。とある家の世話係を任された主人公が、人間の言葉を喋る犬達と庭に現れる多種多様な生き物たちと交流する胸踊る美しい物語。

著者:藤原辰史
子ども食堂、炊き出し、町の食堂、居酒屋、縁側…
オフィシャルでも、プライベートでもなく。
世界人口の9人に1人が飢餓で苦しむ地球、義務教育なのに給食無料化が進まない島国。ひとりぼっちで食べる「孤食」とも、強いつながりを強制されて食べる「共食」とも異なる、「あたらしい食のかたち」を、歴史学の立場から探り、描く。
現代社会が抱える政治的、経済的問題を「家族や個人のがんばり」に押し付けないために。
- ウェブサイト「エディブル・クラスルーム」
「食」 x 「ローカル」をキーワードに名古屋周辺エリアで、食の生産や流通、消費にスポットをあて、フィールドリサーチを遂行し、そこから得られた「気づき」を展示などを通してより多くの人たちと共有し、書籍等にアーカイブしていくプロジェクトです。 - ウェブサイト「エディブルメディア」
映画『都市を耕す エディブルシティ』の配給活動を中心に、Youtubeによるネットラジオ番組の制作配信や、イベントの企画、教育機関のサポートなどをしています。僕が配給窓口をしています。Vimeoでのオンライン視聴も出来ます。詳しくは上記のサイトにアクセスしてみてください。

特集:眺め食べる「庭」時間
<この号の内容>
眺めて楽しく、かつ食べられる植物が育つ、良原リエさんの“庭”を紹介します。
もともと植物が好きで、最初は育てることだけで満足していた良原さん。やがて食べられる植物を農薬や化学肥料を使わずに、できるだけ自然に育てたいと思うように。
庭に巣箱をかけて鳥を呼び、棲みついているカエルの力を借り、水辺をつくってトンボを招き、雑草を残す。植物を種や苗から育て、花が咲いて枯れるまで見守り、必要な種を採取したら、残りの種は庭にまく。
「小さな庭やベランダ、キッチンでも大丈夫! 食卓にのぼる野菜や果物の本来の生き方を垣間見られるのが魅力」と言う良原さんに、“眺めるだけでも心の栄養になり、食べれば身体の栄養になるような庭づくり”への道案内をお願いしました。
<ビッグイシューとは>
ビッグイシューは市民が市民自身で仕事、「働く場」をつくる試みです。2003年9月、質の高い雑誌をつくりホームレスの人の独占販売事業とすることで、ホームレス問題の解決に挑戦しました。ホームレスの人の救済(チャリティ)ではなく、仕事を提供し自立を応援する事業です。定価450円の雑誌『ビッグイシュー日本版』をホームレスである販売者が路上で売り、230円が彼らの収入になります。
冨田貴史(とみたたかふみ) プロフィール
1976年千葉生まれ。大阪中津にて味噌作りや草木染めを中心とした手仕事の作業所(冨貴工房)を営む。
ソニーミュージック~専門学校講師を経て、全国各地で和暦、食養生、手仕事などをテーマにしたワークショップを開催。著書『春夏秋冬 土用で暮らす』(2016年/主婦と生活社・共著)『いのちとみそ』(2018年 / 冨貴書房)『ウランとみそ汁』(2019年/同)、「未来につなげるしおの道」(2023年/同)など。