人生は“切れる”ことから始まる

生命(いのち)の働きというのは、その人にしかない人生を形作っていく、エッセンスのようなものがたぶん一人一人の生命の中にあって、その人らしい、その人にしかない人生を形作っていこうとする。それはすごく創造的な力。そのエッセンスはそのように人生を形作っていくし、出会いを生み出していく。そこでいろんな出来事を経験させる。それはエッセンスの成せる技、と思うのよね。

我々の中には、エッセンスがあるし、それは、「種」のようなものかもしれん。もとになるもの。と考えたら、その生命の働きに従って、一人一人は、どんどん自分になっていく「木」「樹木」ということ。つまり、一人一人はみんな、生命の木。生命の働きに従って、その人になっていく、その人の人生を形作っていく木。だから木の形は、まさにその人の人生そのものを表している。

その始まりは、そもそも親木の生命の木から分離した、つまり、落ちたというところ。生命の始まりは分離やと思うのよね。種は、必ず元々は、親木から落ちたことが始まりやから、「切れる」ことが、全ての生命の働きが起動を始める一番最初なんやね。そして、落ちた種が最初に誰に教わらなくてもすることが、大地に根をおろすということ。芽を出すんじゃなくて、先に根をおろすということがすごく意味深いことだよね。

大地の母に根をおろすということは、大地を信頼し、そして大地に抱かれるということ。とっても母性的なものの中に、安心して根をおろすということ。根をおろすから、上に伸びていくことができるのよね。その人がその人になっていく、どんどんその人の人生を表現していくのは、枝葉を伸ばしていく、つまり外界に自分を表現していくということやけども、外に広がっていこうと思うと、その分だけ、根っこが中に広く広がっていないとあかんから、この上の部分と、地面から下の部分のバランスはすごく大事や。

根をおろすということと根を張るということ、ある種の大地との信頼でもあるよね。そのことなしに、その木になっていくということはない、ということやと思うのよね。その根っこの張り具合、根をおろすことやったり、根を張っている様子、これが豊かであるということが、自己肯定感が育まれている様子と考えられるよね。

人は誰しも「分離不安」を抱えている

赤ちゃんは、ある種の不安がいっぱいだよね。「分離不安」という、お母さんのお腹から生まれてきて、要はへその緒が切れたときの切れた感がものすごく強い。生まれるときに破水して生まれてきて、いろんな音も聞こえてくるし、たぶん、いろんなものも動いているし、いままで完全に羊水で守られている状態から、守られていない状態、水がなくなるわけやし、音からも守られていない、衝撃からも守られていない状態になったときに、ものすごく恐怖を感じたはずや。

人によっては、この大きなエネルギー、このすごく恐ろしい感覚と、この分離した時のこの不安感を総称として、ある種の外傷体験として、バーストラウマというのよね。赤ちゃんはこのすごく大きな不安、不安という大きなエネルギーをいつも抱えていて、すぐ不安になって親を求める。だから、自分を不安な状態から、ある種の恐怖感から、すぐ安心に、安全にちゃんと移行させてくれる、特別な人が必要やと思うのよね。 誰でもいいんじゃなくて、とっても愛着を感じる人。愛着を感じるということは、誰でもいいというじゃないよね。愛着関係は、不安を安心に変えてくれるし、危険だと思ったものを安全にしてくれるし、不快だと思っているものを、ちゃんと心地よい状態に変えてくれる、という特別な人がやっぱり必要やと思うのよね。その人がまずいてくれるということが大事やと思う。それがまさに、【BE WITH】という、ともにいてくれる人で、そこから育まれ始まるのが自己肯定感かと思うのよね。

・・・親と愛着形成がしっかりできていればいいですけれど、もともと親がいないというケースもあれば、なかなか親との愛着形成が難しいという場合もあると思うのですが・・・

望ましいのは、自分の実の親が愛着者になるということ、親と愛着形成ができるということが一番と思うのよね、やっぱり。特に望ましいのは母親やと思う。父親にも母性はあるし、だから父親で代行するというケースもあるかもしれない。けれども、母親から生まれてきたことは確かやし、逆に言ったら母というのはそのくらいかけがえのない存在やと思うのよね。だから母に育ててもらうということ、ちゃんと母が母の機能を果たすということほんとは大事なことと思う。

だけど、必ずしもそうやって親に恵まれて、恵まれた環境、恵まれた状態でない場合もあるよね、やっぱりね。そのときには、誰かしら、その人に親に代わる、愛着者、誰か特別な人は必要だよね。その方が望ましいかもしれんよね。もし、それがだめやとしたら、何人かの人で代行するということが必要かもしれんし、みんなで分担するということも必要かもしれんよね、本当はね。

そうやって考えると、ある種の、親子という血縁関係でない、われわれがよく使うような「ティオシパイェ」という拡大した家族、つまり親のような母親のような人がいたり、父親のような人がいたり、おじさん的な人がいたり、グランパみたいな、おじいちゃん的な人がいたりという、もしかしたら家族という血縁関係の枠組みでない、何かが、いま必要かもしれんよね。

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松木 正 プロフィール

先住民の知恵と生き方から学ぶ環境教育、自分と自分をとりまく様々な生命との関係教育を軸に「マザーアース・エデュケーション」を主宰。

京都府伏見生まれ。大学在学中、自身がうつ病を克服していく過程でカウンセラーと出会い、教育の現場にカウンセリングの手法を用いることの可能性を探り始める。

YMCA職員などを経て環境教育を学ぶために渡米。全米各地で環境教育のインストラクターをする中でアメリカ先住民の自然観・宇宙観・生き方、またそれらをささえる儀式や神話に強く引かれ、サウスダコタ州シャイアン居留区に移り住みスー・インディアン(ラコタ族)の子どもたちの教育とコミュニティ活動をしながら伝統を学ぶ。

現在、神戸を拠点に全国各地にて、キャンプの企画や指導、企業研修、学校での人間関係トレーニング、また保護者に向けてのワークショップ、子育て講座、アメリカ先住民の知恵を前面に打ち出したキャンプの企画と指導、神話の語り、教育的意図をもった企画講座、個人カウンセリングなど、幅広く活動している。

著書に、ロングセラーとなった『自分を信じて生きる』(小学館) 『あるがままの自分をいきていく インディアンの教え』(大和書房)がある。

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